縄文早期から室町時代までの遺物

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サイベ沢遺跡の土器(左、円筒下層式 右、円筒上層式)市立函館博物館蔵

 桔梗台地に人類が住むようになったのは、古函館湾の入江であったころ、すなわち現在の亀田平野が海水で満たされていた時代から、かなりの年数を経てからである。その後の調査によって、この桔梗台地周辺から縄文時代早期の遺跡や縄文時代のあと室町時代に至るまでに人類が生活した跡が発見されるようになった。それらの発見は、遺跡包蔵地として知られていたサイベ沢付近に函館圏流通センターの建設計画が具体化したため、国の補助事業で亀田市教育委員会がサイベ沢遺跡の分布調査を行い、更に函館圏流通センター建設に伴う遺跡発掘調査が実施されてからである。

サイベ沢における先史人の生活(北海道開拓記念館展示パノラマ)

 サイベ沢で円筒土器文化が営まれたのは少なくとも今から五、〇〇〇年程前から四、〇〇〇年程前の時代である。縄文時代前期の初めに桔梗台地の南側に小規模な集落があり、中ごろにはサイベ沢左岸台地に円筒土器文化を持った人たちが生活を始めた。このころ、同じような文化を持った人たちが函館半島北東部に当る茅部郡南茅部川汲のハマナス野や、亀田郡七飯町峠下を始め、日本海側の檜山郡江差町椴川(とどかわ)にもいたが、サイベ沢は海岸に近かったので、オットセイ、アザラシなどの海獣がイワシなどの魚を追って湾内に進入して来たであろうし、時には海亀やクジラも近くに寄って来たと思われる。貝塚から現在では見られない大形のハマグリ、アサリ、カガミガイなどが出土していることからこの付近は砂浜であったと推定される。一方ツメタガイ、エゾアワビ、エゾタマガイ、ホタテガイといった比較的寒流性の貝も見られ、一部に岩礁地帯があったことも推定される。出土した貝類などから、寒流の湾入によって当時の気温は現在より平均二度程低かったこともうかがわれる。貝類以外に貝層や貝層下部から大きなマグロ類の魚骨も出土し、獣骨も混入しており、最も多かったのはエゾシカのものである。貝層から出土した日常品の針や釣針などが鹿角製であることから、エゾシカは食糧としてばかりでなく、生活用具の原料としても重要な動物であったことがうかがわれる。
 円筒土器文化とは、この時期の土器の形が円筒形をしていることから呼ばれる文化であるが、それ以前の土器は尖底(せんてい)土器と言って尖(とが)り底に造られ、貝殼を用いて文様が付けられているが、それがささ竹などのような施文具に変り、更にそのあとから縄で文様が付けられる。中には底の平らな安定した土器もあるが、これは極めて少なく、大部分は底が小さく造られている。縄文時代前期になると大形土器で、口径と底径がさほど違わない安定した形の土器が造られるが、この時期の土器はすべてこのように円筒形をして縄で文様が付けられている。これは食糧など貯蔵用土器の流行という時代の反映と見ることもできるが、土器の胎土に禾本(かほん)科植物の繊維を混ぜ、器形を筒形に整えてから底を付けて仕上げ、縄で文様を施す。文様帯は上部の口縁部と、胴部から底部にかけての部分に分かれているが、縄の文様も原体の縄そのものを回転したり、縄に結び目を付けたり、右撚(よ)りと左撚りの縄をからませたり、棒に細い縄を巻き付けて用いたりしており、その手法は一〇種以上にものぼる。これらの縄文原体を調べると縄作りの技術が大いに優れており、生活体験から生まれた縄の文化に驚かされる。また、縄文原体および縄文の組合せと土器形式は一致することもわかる。前期の円筒下層式土器は、器形が単純で、装飾文は素朴(そぼく)であるが、後半になると頚(けい)部と体部に文様が分かれ、内面が研磨されて光沢があり、全般的に大形である。中期の円筒上層式土器は器形に変化が見られるようになり、口縁部が四つの山形突起となるか、花弁状に開いて装飾も粘土ひもを張り巡らしたりして縄文が豪華となり、胴部が張り出したりするが、後半になると縄文の華やかさや器形のおごりがなく、簡素なものとなる。一方石器は偏平打製石器と呼ばれる安山岩の石器や、石冠といって、物をすりつぶしたり、砕いたりする石器が多量に使用されるようになる。
 中期の円筒上層式土器の時代になると、集落規模が広がり、サイベ沢の周辺には東西三〇〇メートル、南北二〇〇メートルの範囲にまで規模が拡大し、沢の南側だけでなく、北側一〇〇メートルに至るまで住居が建つようになる。集落規模の拡大は、土器装飾の豪華さにも反映され、また、一方では狩猟、漁労生活がかなり豊かであったことを物語っている。更に、祭りや原始信仰も社会集団の中で確立されてきたようであり、これは、幾つか発掘された土偶や人面文様の土器の登場によって推定できる。報告書には第一地点第5層出土の土版と表現しているがこれは板状土偶の一部で、胴部下半部分の破損品である。類品は弘前大学所蔵品中にあるが、完形品だと大きさ四〇センチメートルにもなる。胴部の縄文は衣服を表現したもので、割礼などの儀式に用いたものであろう。同じ第5層出土土器には生殖器が誇張された女性の小形土偶もあり、参考品としては両足を前方に曲げている土偶もある。土器の中には儀式用と思われる小形のカップ形や供物用の特殊なものも出土している。この当時の装身具には、硬玉製の玦(けつ)状耳飾、滑石製の垂飾のほか、縄文飾りのある土玉、環状で縄文飾りのあるペンダントとか、動物の意匠を模したものがある。人面文様の土器は、口縁部の山形突起の下にあどけない表情の人面を二つ並べたもので、これは婚礼の儀式用土器ででもあったものであろうか。
 縄文時代の文化を、土器や石器のみに語らせることには限界があるが、サイベ沢遺跡円筒上層式土器が盛んに造られて、集落の面積が最も拡大した時期に、北海道における円筒土器文化をもった集落も同様に拡大した。

サイベ沢遺跡の規模と分布

 サイベ沢遺跡の第一地点と第二地点の発掘によって、縄文人がどのような民族であったかを解明できるのではないかという期待があったが、第一地点出土人骨は、頭位北西四〇度で仰臥屈葬された成年のもので、回りに小形の自然石が配列してあったことと、第二地点の貝層出土人骨が若年で仰臥屈葬と推定されただけで、骨格が破損し、頭蓋(ずがい)骨と肋(ろっ)骨が少量残存していた程度であり、人類学的な特徴は明確にできなかった。