安政二年三月の箱館開港により食料、薪、水などを外国船に供給するようになったが、外国船は牛と五升芋(馬鈴薯)その他野菜の補給を求めてきた。外国船の中には、船中に牛、羊を飼っているものもあったが、手狭な船倉にこれを飼うことはたいへん不都合であり、食肉用の牛を提供するように奉行所に強く望んできた。
前引の『佛船碇泊日記』には、「一 船将 当船に畜(ヤシナイ)有レ之候牛、羊、船中手狭に付、可二相成一は陸上げいたし、日々入用丈請取申度、薪水差支候の間買求、尤右代料差出可レ申候。」と記されている。
また安政三、四年の記録である『蝦夷實地檢考録』には牛の数を「大野村二十二、本郷村三十二、市の渡村七十三」と記してあり、当時は主として駄送用として飼われていたため、これを買上げられることは農民の生活を脅かすことになり、箱館奉行所は次々と入港する外国船に供給することはできなく、拒絶していた。
しかし牛肉は、外国人の食生活に不可欠のものであり、病人の薬用でもあるということで、老中から認可を受け、安政五年南部藩から五〇頭の牛を購入し、箱館尻沢部で飼育し、更に安政六年からは七重薬園で南部から二七〇頭を購入飼育、提供するようになった。このほか、豚や鶏なども外国船から求められていたが、豚は安政四年ころ、鶏は安政二年開港当時から提供されていた。
なお外国人が牛を殺す場面を見た平尾魯仙は『箱館夷人談』の中で「実に苛刻無慙の所業と云べし。」と記しており、日本人には牛を殺して肉を食することなど、とても考えられないことであり、これもまた外国人に対する牛の提供をきらう一つの原因となっていたようである。
次に牛と同じように外国船に強く求められた食料に五升芋がある。これは前松前氏時代からすでに栽培されており、最初のうちは近在に手配し、外国船へ供給していたが、外国船の出入が多くなるにつれて生産が間に合わなくなり、箱館奉行所は安政四(一八五七)年四月には「来ル午年(五年)より以来年々御買上に相成候間、当年より可レ成丈ケ作増候様可レ致者也」と布達を出し、更に翌五年二月にも奨励を布達し、生産量の増加を図った。このようなわけで、五升芋の価格は三、四倍に騰貴し、生産量も増加しつつあったが、外国人たちから自由取引の要求があり、安政六年の冬から五升芋の買上げを停止し、翌七年から収獲高の二割を税として徴収し、他は自由に売買してもよいことにした。
このような経過で五升芋が増産されるようになったが、生の五升芋だけでなく、澱粉や切干し、焼酎(ちゅう)などとしても生産されるようになって行った。
切干しは箱館奉行所によって木古内、茂辺地、七重ほか数か所に製造所が設置され、房州勝山の新兵衛に経営させ、一俵につき一八〇文の工賃で製造した。また澱粉は、亀田村の栄治が奉行所より借用した資金で亀田村、上山村に水車場を作り、ここで製造した。このほかに『北海道総合経済史』には、「万延元年中島辰三郎の勧誘により、蛯子太郎左衛門は亀尾に水田のほか大豆、蕎麦などと共に馬鈴薯をも栽培し、馬鈴薯は神山の幕府直営澱粉工場に一俵約五百文で販売し、一か年の収益約三十両をあげ、以後三、四カ年継続した。」と述べられている。
焼酎は文久元(一八六一)年箱館尻沢部御用畑の農民兵吉に資本金を貸付け、これを製造させたが、文久二年七月、成績が不良で中止している。