一方五稜郭を占領した榎本軍は次いで福山、江差方面をおさえ、その間主力艦の開陽丸を江差に失うなどの大損失もあったが、明治元年十二月十五日、ついに箱館に独立政府の形をもって政権を誕生させるに至った。この政権の指導者を決めるに当っては、欧米の新方式をとり入れ、各隊の士官以上による入れ札(投票)によって総裁以下副総裁、海軍奉行、陸軍奉行、会計方、箱館奉行、松前奉行、江差奉行、開拓奉行を決めた。
その後榎本軍は官軍側の反撃に備え、森、鷲の木、砂原、臼尻、川汲、江差、松前、江差山道、矢不来、峠下などに台場や胸壁を多数構築した。亀田周辺でも榎本軍の本営である五稜郭および弁天台場の本格的要塞を中心として、軍事上の拠点と思われる湯の川、四稜郭、千代が岡などには台場が構築されており、戦闘が箱館に近づくにつれて、このほかにも急ごしらえの台場や胸壁が亀田、箱館の各所に造られた。また、榎本軍はこれら台場、胸壁の構築ばかりでなく、兵器を整備し、軍事教練を行い、規律を厳重にし、要地に各隊を配置するなどの備えも行った。