煉瓦并瓦製造所 市立函館図書館蔵
瓦は文化年中(一八〇四~一八一七)幕府により初めて本道において試作された。製造者、場所等についてはつまびらかではなく、しかも実用的でなかったといわれている。その後嘉永年間(一八四八~一八五三)金子利吉は茂辺地で原料に使用すべき土を発見し、製造したが良品を得られず良土を求め、各地を探索し、安政四(一八五七)年亀田村字船揚野において瓦の製造所を開設し、以後五稜郭同心長屋に使用する瓦を始めとして箱館市中の寺社、役所、土蔵用などの瓦を製造し、明治十五年頃には年額二〇万円を越える生産を上げた。
金子利吉(能登出身、弘化四年箱館に移住した。殖産興業、公益に努め、弥生、東川等小学校の創立に尽力、私財を投じて市村の道路、橋梁の改修、医師と協力、施療に尽した。町総代、区会議員に挙げられ藍綬褒章を受け、二十九年病歿した。)
また、年代はつまびらかではないが、高龍寺、浄玄寺、願乗寺、実行寺、湯殿山は同店の瓦を使用したと言われている。(明治三十五年函館案内)なお、このことが剌激となり、更に良質の土が得られたことなどの理由によるものであろうか、慶応二(一八六六)年四月、平一が後を追うようにして工場を新設した。このほかに茂辺地村で、陶器師岩次が文久元(一八六一)年および二年にわたり(『新北海道史』通説一)、煉化(瓦)石合計三万一、一七八枚を製造し、百六両三歩永八拾八文弐分の代金であったことが『筥嶴經濟』(函館市史史料編第一巻所収)に見えている。