3、松前島郷帳・松前蝦夷図にみるアイヌ居住地と和人村

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 『松前島郷帳』と『松前蝦夷図』
 1697年(元禄10年2月)、幕府は全国の各藩に国絵図と郷帳の提出を命じた。これを受け、松前藩は元禄13年1月、松前島絵図と『松前島郷帳』を調製し同年2月に提出している。さらに1717年(享保2年)、幕府は松前に巡見使有馬内膳ほか3名を派遣している。視察は、西は乙部から東は石崎までの形式的なものであったが、このとき調製、関係あると思われるれたものが『松前蝦夷図』(享保3年写・大東急記念文庫所蔵)である。
 ともに、地名・地域のようすが記載されているので、郷土沿岸付近を抜粋して載せる。
 
<松前島郷帳 一七〇〇年(元禄十三年)>
 従二松前一東在郷并蝦夷地之覚
 おやす村
 うか川村
 汐くひ村
 従レ是蝦夷地
 はらき
 しりきし内
 ゑきし内
 こぶい
 ねた内
 おさつへ
 おとしつへ
 のたへ
 
<松前蝦夷図 一七一八年(享保三年)>
 おやす村   是より東はま通り馬足相叶ひ不申候
 うか川村
 汐くひ村   是より夷地 岩つゝき、小舟の間在り
 はらき    このはま通りいつれも昆布有り
 しりきし内
 ゑきし内   遠浅岩つゝき
 こぶい
 ねた内
 えさんの崎  小舟の間有り
 おさつへ   此浜通りこんぶ有り
 なかはま   はまつゝき遠浅
 うすしり
 つくのつへ
 かやへ
 おとしつへ  此間おっとせい有り
 のたゑ
         *当時オットセイは精力剤として珍重されていた
 
 前節1、2に述べたように、1600年代(あるいはそれ以前からも)、わが郷土沿岸一帯には相当数の入稼の人々があった。また、定住の人々がいたとも推察される。しかし、1700年(元禄13年)松前藩が幕府に提出した上記、公文書、松前島郷帳では、おやす村・うか川村・汐くひ村(戸井町)までは和人居住地を示す「村」とあるが、はらき(戸井町字原木)からは、「従蝦夷地」これより蝦夷地アイヌの居住地であることが明記されている。また、1717年(享保2年)にやって来た幕府の巡見使有馬内膳らに提出したと思われる松前蝦夷図にも、是より(はらきより)夷地(蝦夷地)と記されているし、付記されていた地図上にもこれは示されていたと考えてよい。
 松前藩は成立以来、松前島郷帳に記した通り、和人とアイヌの居住地については明確な線引きをしていた。また、松前福山諸掟によれば、1691年(元禄4年)西蝦夷地(日本海側)現熊石町字関内以北については、和人定住はおろか往来さえも厳しく取締っていたが、東蝦夷地(太平洋側)の、わが郷土沿岸一帯についてはそれが緩やかで、和人の入稼を認め、土着・定住についても黙認していたと思われる。その理由として、この沿岸一帯が、昆布を始め長崎俵物3品として中国への重要な輸出物となるナマコ(煎海鼠(いりこ))・アワビ(乾鮑(ほしあわび))・サメ(鱶鮑(ふかひれ))などを含め海産物の宝庫であり、松前藩はアイヌ乙名の統治を認めつつ、この地を家臣に知行地として与え、アイヌたちや入稼の漁師たちの漁獲物から莫大な収入を得ていたからである。
 すなわち、この頃の郷土沿岸一帯は、先住者のアイヌの人々、松前城下の村からの入稼、津軽や下北半島からやってきて定住する和人たち、そして、昆布など海産物の交易にやってくる商人らによる、季節的に原始的な共同社会が作られていたと推察される。