もともと海の幸の宝庫・箱館六ケ場所は、松前藩がアイヌの人々の居住地域であると取り決めていたのだが、その藩が、この地域を公に家臣に給地として与え、アイヌとの交易を許可し「商い場」としたわけであるから、入稼の漁師や買い付けの商人たちはごく自然に、地理的に条件の整った場所には半ば定住の集落をつくっていったと考えられる。そして、それに拍車をかけたのが「場所請負制」である。
1720年(享保5年)、11代目藩主になった松前邦広は藩政改革に取組み財政改善のため、莫大な収益を上げている漁業生産地の「商場知行制」を「場所請負制」に漸次移行させることとした。商場知行制では知行主である藩主や家臣が家来や使用人を使い「商場」を経営していたが、場所請負制は知行主が商場の経営権を場所請負人(商人)に委(ゆだ)ね「運上金・税金」を納入させるという仕組みであり、藩や家臣は労せずして収益を上げることができる。ただ、この制度は地域によって傾斜もあった。松前城下に比較的近い箱館六ケ場所については、知行主自身による巡視や監督も容易であり、場所の生産や販売の直接支配が続いた。ここでの商人は入札により一定の運上金を納め、生産物の集荷と仲買を行うのみで場所経営には直接参加できなかった。(白山友正函館大学教授「松前蝦夷地場所請負制度の研究」より)
郷土の知行主と場所請負人および生産状況等について、1739年(元文4年)ころ書かれた『蝦夷商賈聞書(えぞしょうかもんじょ)』には次のように記されている。
一、シリキシナイと申す地 木村右エ門殿御預り
・出物類右同断也(戸井と同じ)
・箱館之者共支配仕候 ・運上金不同
是も小船に而南部江通候
一、イキシナイ并コブイ 此両所 御家老蠣崎内蔵丞殿御預り
・出物類右同断也(戸井と同じ)
・箱館之者共運上申請支配 ・運上金不同
この蝦夷商賈聞書(えぞしょうかもんじょ)によると、1739年頃、シリキシナイ場所はイキシナイ并コブイ場所とに分割され、知行主はそれぞれ、松前藩家臣木村右エ門と家老蠣崎内蔵丞となっており、主な産物は両所とも戸井と同じく、ウンカ昆布・シノリ昆布・布海苔(ふのり)・鰤(ぶり)・鮫(さめ)である。これらを取り扱う場所請負人はいずれも箱館の商人で特定の者ではない。また運上金も決まっていない。なお、シリキシナイ場所の産物は、箱館に集荷されず直接小船で南部に運ばれていたと記されている。
天明年間、1781~1788年代になると箱館六ケ場所も『ヲヤス・ト井・シリキシナイ・ヲサツベ・カヤベ・ノダヲイ』の6ケ所として定着し、場所請負人もほぼ固定化し「場所請負制」が確立していったもようである。なお、『蝦夷地収納運上金帳』によれば、シリキシナイ場所の場所請負人は、1786年(天明6年)箱館の商人、亀屋武兵衛で、1791年(寛政3年)には、同じく箱館の商人の白鳥庄助に代わっているが、運上金は5年間据え置きの30両である。ところが、その6・7年後の1797・98年(寛政9・10年)の『蝦夷地御用中一件留・松前東西地利』では、シリキシナイ場所の運上金、24両・差荷物8品代金2両3分と銭650文、他に手場所運上金、83両2分(合計、110両余りとなる)と記されている。これによれば運上金プラス差荷物代金・手場所運上金と、松前藩への納入金は5、6年の間に4倍近くにも膨れ上がっている。手場所運上金とは、藩主の場所で良質昆布の成育地として割り増しの運上金であり、差荷物代金とは大型の荷物(大量の生産物)にかかる物品税で、松前藩は藩の収益を上げるため正税の運上金の他、このような雑税(他に仕向金・2分積金)を課し、さらには別段上納・増運上金などの一時税が追加されるなど、運上金は年々大幅に増額されてきた。
なお、この運上金の額は視点を変えると、その場所の生産性のバロメーターとの見方もできるであろう。郷土に野呂平四郎らが定住し漁場を開き漁村としての形態が整い、生産性がこの時期、大幅に伸びたと考えられる。因みに、六ケ場所でもっとも良質の昆布成育地で、また範囲が広い、ヲサツベ場所の寛政9・10年の運上金等の合計額は300両を超えている。