[明治・大正期の農業]

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 明治に入り、新政府は国の財政確保のため、税制度の確立を図る必要に迫られていた。そのひとつとして、開拓使は土地への課税を図り、これまで耕作をしていた農地及び新開地(宅地・昆布干場なども含む)等の私有を認め、それを各村・部落ごとに提出させ基礎台帳づくりをした。わが故郷の宝暦の頃から耕作していた農地、いわゆる「隠し畑」がここで明確になっている。また、開拓使・北海道庁はこれらの農地の栽培状況についても、戸長に詳細な報告書を提出させている。尻岸内村にもこの公文書等、明治初期・大正期の文書が存在するので、それをもとに明治・大正の農業について推察することとする。
 
農地としての適性 『明治三年 諸願伺留より』(道立文書館所蔵)
 明治3年(1870)開拓使、庶務懸の諸願伺留に『代島剛平・倫蔵』父子が提出した書付けが残っている。これは、わが故郷の開墾を計画し私有を願出た文書(もんじょ)であり、代島が、わが郷土を農業の適地とみて、具体的な計画書を添え提出した貴重な文書である。
 
開墾之儀ニ付尻岸内村御任方奉願候書付
 私父剛平義年来開墾義ニ付配慮罷在候處今般當處近在は勿論東西奥地迄も開墾義厚御世話被為在ニ付而は同人義弥心力を尽し御趣意を貫き聊たりとも御国恩を報し候様仕度奉存候間十ケ年中尻岸内村并枝郷共不残御任せ被下置度然候ハゝ村民共之事情ニ不悖様申諭開墾盛ニ相励せ往々は富饒安堵に至り候様取計十ケ年相立候ハゝ速に返上可仕尤自分開墾地之義は拝領被 仰付度奉願候旨同人懇願ニ御座候間何卒出格之以 御沙汰右願之通被仰付被下置度依之別紙同人開墾見込書相添此段奉願候以上
  午正月              代 島 倫 蔵
 
(別紙)
開墾見込大略
一、壱ケ年分田畑壱軒ニ付平均壱町ツゝ之割合を以取開候得ハ十ケ年に而一軒分十町ニ相成申候但地形土性ニ応し大小麦粳糯粟稈蕎麦大小豆等蒔付一ケ年ニ付出高之内三分一又は四分一ツゝ年々村内積穀ニ致し候積利
一、前書一軒一町之割ニハ候得共百姓共心服開墾ニ熟し候ニ随ひ町歩を益開墾為致候積利
一、前書麦粟等之外菜 瓜等迄も蒔付候積り
一、方向ニ随ひ風寒烈敷山野は松杉栗李桃杏桑其外土地ニ相應し候苗木植付候様為致候積利
一、百姓家秣場并産物囲入用之草場は相除其余は不残開墾之積利
一、三万坪                代島剛平自分開墾之積利
  但田畑取開五穀并樹木等植付候見込 *五穀(米麦粟豆黍稗)
一、開墾勿論質素倹約之義は漸々申諭往々拝借米等不相願候とも行立候様仕度事
右の外相洩候義は追々申上候積ニ御座候以上
  午正月          倫蔵父 代島剛平
 
 この文書(もんじょ)を重視するのは、尻岸内村並び枝郷の開墾を願出た代島倫蔵の父剛平が、郷土に縁のある人物であるからである。
 代島剛平は松前藩士で箱館勤めであった。禄高110石の町方頭取という身分は決して高くなかったが、柔剣術・砲術、心学と文武両道を身に付け、些かの私心もない資性剛直、清廉潔白な人物であると記録されている。代島は、安政元年(1854)4月、アメリカ使節ペリー、9月ロシア使節プチャーチン来訪の節は応接掛を勤め、翌年には幕府から請われ箱館奉行支配役に任じられている。その後、武田斐三郎の配下となり、弁天砲台・五稜郭古武井熔鉱炉の築造掛りを命じられ、古武井熔鉱炉築造の現場責任者として指揮を執っている。したがって安政2年頃から5、6年頃まで頻繁に、わが郷土に来村したり、滞在していたことは確かである。しかも、幕府の一大工事を進めるということから、地域の実態については相当な認識を持っていたものと推察される。子息倫蔵の提出した『開墾之儀ニ付尻岸内村御任方奉願候書付』に添付した剛平の署名のある『開墾見込大略』は、かなり具体的に記述されているが、これは、剛平の人柄から考えて単なるデスクプランではなく、彼自身、実現可能だと考えての計画書であったと思われる。ただ、この願書が子息倫蔵名で提出されているのは、、剛平の年齢が当時(明治3年)55歳という高齢であったからではないか。記録によれば剛平は、明治に入り箱館、亀田、函館と移り住み学校(明正会)を開き子弟の教育や心学道話を講じ、明治7年(1874)東川町に中教院を起こし神道を布教したが、その年59歳を以て病没している。
 なお、代島剛平・倫蔵親子の開墾・農耕の記録は見つからないが、わが郷土を農業の適地と見て、開墾しようとの強い願いを持ち、具体的な計画を建てたことは確かである。