鉱山の仕事は、生産性を考慮した職種別組織を採っていた。
これら鉱山労務者のうち4分の1くらいは、地元村民か近隣の村から入稼した人で、その殆どは、比較的単純な労務の採鉱夫(坑夫・露頭坑夫)として従事した。この中には、既に操業をしていた鹿部・熊泊・古部などの硫黄鉱山で働いていた人も多かった。また、専門的な技術を要する職種については、本州や道南各地から経験者が入り込んできていた。例えば、製煉夫は、宮城・鳴子・蔵王の熟練者等。林業夫は、秋田・山形の樵夫、薪材や用材の運搬夫は、道産馬・南部馬を扱う函館近郊の亀尾・蛾眉野・銭亀沢や江差・上ノ国・厚沢部など檜山からの入稼等のように。
<労務者の採用> 労務者は、その殆どがいわゆる縁故による採用であった。鉱山で働く人々からの便りで、景気のよい鉱山の様子を知った郷里の親戚や知人が、単身で、あるいは家族共々続々と入稼してきたが、女手も貴重な労働力として歓迎された。これらの労務者に対する旅費や前貸金も鉱山主が支給したし、また、賃金は当時最も高額の、30円(月額)をとっていた鰊漁場の漁夫と同額が普通であった。このような好条件から、多数の労働力を必要としたにも拘らず、鉱山事務所は労務者募集の人を派遣したり、また、周旋屋(悪質な業者も少なくはなかった)の手を経ることもなく、比較的よい働き手の労務者が数多く集まってきた。この時代、東北地方が断続的な冷害に見舞われたことも、労務者集めには幸いした。
<飯場と労務者> 飯場は、単身者にとって大切な生活の場であり、その善し悪しは勤労意欲にも大きく影響する重要な施設である。この飯場は、採鉱関係・製煉関係・林業関係のおおむね職種別に分けられ、それぞれ4棟、計12棟建てられていた。収容人員は1棟35人から40人収容、広いものでは7、80人収容できるものまであった。
飯場の構造は、中央にT字形の通路をとり、窓際には個人の手回り品を載せる棚を吊り、蒲団(飯場で貸出し)は、頭を互いの窓際に向け敷き、足を通路側に延ばし就寝する事になっていた。また、労務者は起床とともに、蒲団を2つ折りにし窓際に片付けて、私物は吊棚に整頓するなどの規則も設けられており、これらの徹底や生活の諸々の世話のため、飯場仲間の古参が月番であたり、T字形の通路の奥まった一角を占有し、一定の権威を有していた。また、飯場全体の管理・運営(1棟毎に)については、鉱山事務所から任命された飯場頭が1、2名の帳場(事務職)とともに当たっていた。
食事は、T字形の通路の中央に据付られた大きな飯台でとり、炊事婦は主に社宅の(鉱山の職員の)妻女を雇入れた。時には独身の女性が働く事もあったが、風紀上の問題に就いては特に配慮し、炊事婦の飯場の寝泊まりは厳しく禁止されていた。
<飯場の賄料> 飯場の賄料は、食事・宿泊こみで1日15銭から16銭で、貸蒲団代は別途1日2銭であった。当時の労務者の平均的賃金が月額30円という事からみれば、この賄料は安価であったが、三井鉱山時代には、賄料、22銭から25銭、貸蒲団代3銭から4銭に値上げとなっている。
<友子組合> 縁故での採用者とは別に、職を求めて鉱山を渡り歩く人々の自治組織として、友子組合が組織されており、その事務所が古部鉱山に置かれていた。自友子、渡り友子と呼ばれていた鉱山労務者がこの事務所を訪れると月番が応接に当たり、働くところが決まるまで飯場仲間が一切の面倒をみるしきたりとなっていた。友子組合での一宿一飯の仁義を重んじた労務者たちは、職場でも面倒を起こさず、まして逃亡者など全く無く、皆、落ち着いて働いたという。
<飯場頭と作業請負> 飯場頭は、飯場の管理・運営の責任者であると共に、自分の飯場の労務者・若い衆を組として現場の仕事を請負い、指導監督し作業に従事させていた。労務者・若い衆はいわゆる寝食を共にしている仲間でもあったし、請負は出来高払いを採っていたので働くだけ収入も増え、生産高も上がったと考えられる。この出来高払いを、坑道堀りに例をとれば、採鉱には車堀(しゃぼり)・間堀(けんぼり)があり、車堀は、鉱石をトロッコ1台(0.7から0.8トン積込み)採鉱、坑外までの搬出距離を算定し、3銭から4銭支払われていた。間堀は、1間(1.8メートル)の採鉱ごとに鉱床の硬軟を査定し、1円50銭から2円を支払う取決めとなっていた。
なお、三井鉱山が経営(明治44年以降)に乗り出してからは、労務者の募集は事務所が力を注ぐようになり、飯場頭の仕事は、飯場の管理・運営だけとなった。
<鉱山内の厚生施設> 古武井鉱山は、多くの労務者が入り込む大規模な鉱山であったので、地理的に不便な地域であったが、行商人は頻繁に出入りしたし、馬車鉄道沿線には暗渠商店街と呼ばれ、生鮮食料品・日用品・雑貨屋から呉服屋、酒屋、饅頭屋など衣類や嗜好品を扱う商店まで軒を連ねるほどになった。商品の流通は、鉱山の運搬船は勿論、古武井の浜と当時大都会であった函館との間を、複数の定期便・不定期便の船が通っていたので、品数・量とも相当豊富であった。実地調査でも、当時、一般家庭では稀にしか飲まれていなかったビール瓶、洋酒のボトルなども確認されている。
このような実態から飯場内には購買部など設けなかったが、鉱山事務所では、労務者の便宜を計らうため、大蔵省の許可を受け古武井鉱山の地区内にのみ通用する紙幣『ヤマ札(さつ)』を発行した。ヤマ札の種類は、5銭・10銭・20銭の3種類があり、勿論、何処の商店でも通用したが、これを使用すると現金で購入するより5分程高かったという。
古武井鉱山で、軍票や藩札(江戸時代の)のような『ヤマ札』の発行が認可された事はそれだけ、政府がこの鉱山の規模、重要性を評価していたとも言えるのではないか。
<鉱山労務者の禁忌> 自然を相手に働く人々は信心深く、また、縁起(ジンクス)を担いだり、仕事上の禁忌(タブー)があったりするものである。古武井鉱山にも次のような禁忌(タブー)があった。
妻がお産したときは1週間鉱山へ出てはならない。採鉱現場で口笛を吹いてはならない。頬被りをしてはならない。仕事上の禁句がある(例えば、坑道に入る前「穴」という言葉を使ってはならない)。同性のものを合わせてはならない(例えば、スコップどうしを擦って土を落とすなど)等。一見意味のないような事であっても、その成立ちには相応の根拠があったわけで、労務管理上これらの事は重要視されなければならなかった。
<鉱山神社・祭典> 前述のように、鉱山で働く人々は人一倍宗教心が強く、鉱山神社太平山三吉神社を建立(明治40年5月吉日)している。また、明治40年代か大正時代の神社の祭典・奉納相撲の写真が現存し、当時の祭りの賑々しい様子が想像される。楽しみの少なかった鉱山(やま)の人々は勿論、海辺の人々も、この祭りを楽しみにしていたという。1葉の写真から鉱山で働く人々の、神社に対する熱い思いも推察されよう。聞きとりによれば、この奉納相撲は東京大相撲の地方巡行の一行だったという。ふるさとの山間の辺地に、東京大相撲の一行がやって来たという事は、当時の古武井鉱山の事業の規模・経営者の力が、中央でも相当高く評価されていたと言えるのではないか。
<労務者の健康(病院と墓地)> 明治45年の村内の共同墓地の図面がある。その中の高聖寺共同墓地図面に、鉱山埋葬墓地として2区画が指定されている。その1区画は「百九名埋葬シ此所全部空地ナシ」もう1区画には「五十七名埋葬シ今ハ十坪位ノ余地有ルノミ」「明治四十五年一月下旬ニ於テ(管理者 芹田寛隨)」と記されている。なお、この共同墓地は明治36年5月30日願出、同年10月27日許可が下りているので、おおよそ10年間に166名の人々が古武井鉱山で死去したことになる。これはかなり大きな数である。鉱山での事故は、明治41年(1908)3月8日の雪崩による大惨事(後述するが)で男11人女18人計39人の犠牲者が出た記録はあるが、事故が、そう頻繁に起きていたとは考えられないし、記録も残っていない。勿論、老衰での死亡も稀であろう。従って、死因は疾病と新生児死亡がその殆どであると推測される。
鉱山の労働、特に坑夫の場合10~12時間坑道にもぐりっぱなしであり、休暇もなきに等しかったろう。食べ物は潤沢であったようだが、住宅は笹葺きの粗末なものであったし、決して健康的な環境ではなかったと推測される。また、過度の飲酒も健康を蝕んだと思われる。このような状況から、鉱山には診療所が開かれていた。医師は古武井の開業医で、順天堂医学校(現順天堂医大)出身の五ノ井謙士医師と渡辺医師の2名、それと、フランス女学校(現白百合学園高校)を卒業後、渡島病院で薬学と看護学の実技を身に付けた池沢むめ看護婦が配置され、漢方医学と西洋医学を併用した積極的な医療活動を行っていた。にも拘らず上記の死亡者数である。鉱山の仕事とは、それだけ過酷なものであったのだろう。いや、医療活動が整っていたからこれですんだのかもしれない。なお、五ノ井謙士医師は福島県大沼郡金山町出身で、晩年は故郷へ帰られ余生を送る。椴法華村在住の五ノ井姓は親戚筋にあたる。池沢看護婦は志平清次郎氏に嫁ぎ子孫は町内に健在である。