古武井熔鉱炉・女那川煉瓦製造所の研究論文

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 古武井熔鉱炉・女那川煉瓦製造所(炉築造のための)の調査・研究については、早くからその歴史的価値を認めていた浜田昌幸(収入役・町史編集長)・恵山地方史研究会が、学者・専門家の指導や協力を得ながら長年に亘り取組み、その成果は、尻岸内町史に詳細に記載されている。そして、これらの労作に対しての評価は極めて高い。また、浜田らは、古武井熔鉱炉と女那川煉瓦製造所の本格的な学術調査の要請(跡地の発掘なども含めて)・文化財保護についても関係機関に働らきかけるなど、精力的に取り組んできた。
 その労が実り、価値が認められ、『古武井熔鉱炉跡』『女那川煉瓦製造所跡』という名称で1968年(昭和43)3月17日付けをもって『北海道指定文化財』となった。
 この指定が「跡(あと)」とあるように、熔鉱炉も煉瓦製造所もすでに姿を消している。熔鉱炉跡地には基礎の石組(遺構)が残され僅かにその容姿を偲ぶことができるが、煉瓦製造所跡地は発掘調査の後、覆土され草地となり、看板がその所在を示しているにすぎない。なお、熔鉱炉の基礎である石組は五稜郭・弁天岬砲台と同じく、備前石工、井上喜三郎の施工によるもので、これだけでも歴史的、技術的な価値が認められよう。
 古武井熔鉱炉・女那川煉瓦製造所は、文化財として道の指定を受けるだけの歴史的、あるいは産業遺構として価値のあるものであり、でき得るならば復元させたい。しかし、その実現には費用の点など相当のハードルがあろう。また、再調査の必要性もあると考える。というのも、尻岸内町史の古武井熔鉱炉論文については(当時・発表後も含めて)、いくつかの事項について、見解を異にする論文があるからである。発掘調査も昭和39~40年当時の状況(専門的な組織、予算等)から報告書は「略報」にとどまっている。
 これらの事を考慮にいれ、古武井熔鉱炉・女那川煉瓦製造所等の復元も含め、将来の調査・研究に資するため、まず、尻岸内町史、第8章松前氏の復領そして再直轄、第4節幕府の指令と要害の構築より「古武井熔鉱炉と一連の施設」を中心に文章を整理、その後の資料を参考とし加筆し記述する。併せて、次の入手した関係論文、調査報告書について記載することとする。
 
古武井熔鉱炉・女那川煉瓦製造所について収録する参考文献
尻岸内町史執筆の主とした参考文献
 ①松前地古武井溶鉱炉の研究並に考証年表(白山友正・尻岸内町教育委員会)
 ②古武井熔鉱炉に関する研究(高木幸雄)
いくつかの事項について見解を異にする論文
 ③幕末蝦夷地の洋式製鉄(大橋周治)
 ④尻岸内仮熔鉱炉について(阿部たつを)
調査報告書
 ⑤尻岸内古武井熔鉱炉および川上レンガ製造跡略報(武内収太・吉崎昌一・尻岸内町教育委員会)