箱館奉行は初め、竹内保徳と堀利煕(ほりとしひろ)の2人が江戸と箱館に交互在勤したが、安政3年(1856年)7月には1名を増員し村垣範正を任命、1人は江戸に1人は箱館に在勤、他の1人は蝦夷地を巡回指導監督に当たることとなった。これが、2年後の安政5年(1858年)10月には、さらに1名増員、津田半三郎正路を任命して奉行は4名体制となった。これは、堀利煕(ほりとしひろ)・村垣範正が共に外国奉行を兼務し多忙であった事情からであり、後に3名に減じており、また、2名となった期間など箱館奉行の体制は定まらなかった。また、その任期も非常に短く、遂に箱館在勤をすることなく職を退いた奉行もいた。
箱館奉行支配の属吏には、組頭・組頭勤方・調役・調役並・調役下役元〆・調役下役・同心組頭・同心・足軽の順が在り、ほかに通辯(通訳)・在住・雇・雇医者名度の役職があった。また、文久元年(1861年)3月には目付を置き、貿易と地方事務とを監察させる事になり、山口勘兵衛、小出修理、織田市蔵らが任命された。
こうした人々の中には有為練達の士も多く、河津三郎太郎祐邦、向山源太夫篤・向山栄五郎黄村、平山清二郎敬忠などがおり、後に奉行となった栗本鯤は当時組頭であった。