大正10年2月16日「湯川・椴法華間道路開削改修期成同盟」の結成・発会式、以降の住民代表・議員・首長らの請願活動、とりわけ厳しい財政から拠出の寄付金を条件に戸井・尻岸内・椴法華3村は度重なる請願を行った。北海道庁も地域の熱意をくみ、また国防上、準地方費道に指定、大正12年4月7日湯川椴法華間の道路改良・開削工事は開始された。そして当初の目的地椴法華村まで開通、すべての工事が完了したのが10年目の昭和8年3月31日のことであった。そして、この全線開通を祝し昭和8年7月23日には椴法華小学校を会場に、盛大な道路開通式が挙行された。
この時の様子を翌日の24日付の函館新聞は次のように報道している。
古武井椴法華 道路開通式 =昨日椴法華村で挙行=
昭和八年七月二十四日 函館新聞(現北海道新聞)
亀田郡古武井・椴法華間準地方費道開通式は二十三日午前十一時より椴法華小学校に於て挙行せるが主なる来賓は、町田土木事務所長、神谷渡島支庁殖産課長、大島・林両代議士、前田・太田・富合・岡部・廣部各道議、山木戸井署長、田中尾札部・安川戸井・斉藤尻岸内各村長、川口亀田水産会長、函毎新聞社・函館新聞社、其他椴法華村会議員、有志等百余名
定刻一同着席、神主の修祓、降神行事、祝詞の儀があって玉串奉献・昇神行事を以て、崇厳裡に道路開通報告祭を終り、引続き開通式に移り、国旗掲揚、国際連盟脱退に関する勅書奉読、菊地村長式辞朗読をなし、次いで松原富次郎、武石胤介、川口又三郎、福永藤三郎、安川富蔵、川口勇吉、村井石太郎、菊地倉太、石岡房太郎諸氏に対する感謝状記念品贈呈あり。支庁長(代理)、林代議士、前田道議、安川戸井村長、川島村会議員代表の祝辞及び祝電披露を以て閉式、小憩の後祝宴を開いた。
当日は午後二時より、小学校生徒・青年団の旗行列、午後七時より同じく提灯行列を催して、多年の懸案事項であった道路開通を祝い村内は近年にない賑わいを呈した。
『佐上道庁長官 下海岸方面視察』 −各村から道路漁港の陳情−
昭和八年八月十七日 函館毎日新聞(現北海道新聞)
東伏見宮妃殿下(第2次世界大戦後は宮号廃止)奉送をつゝがなく済まして十四日湯の川に一泊せる佐上道庁長官は十五日午前七時半、自動車隊を整え旅館福井館前を出発し下海岸方面町村並びに恵山登山を決行した。案内役として茶谷支庁長、町田土木事務所長、神谷課長の諸氏、外に前田、太田両道議、笠島函館署長、平尾函館築港事務所長、安西営林区署長、岩城本社記者その他二〇余名
銭亀沢村より沿道各部落有志、在郷軍人会、青年訓練校生徒、男女青年団員、愛国婦人会員、小学校児童等多数の歓迎に対し、一々下車挨拶をなしつゝ戸井・尻岸内の漁港、道路に関する陳情を受け午後十一時根田内原田温泉に着し、河合・幡野・粟山三道議一行合流の上根田内青訓生及び村有志の案内にて、恵山の竣嶺に登はんを試み午後一時頂上を極め恵山温泉で少憩した後、再び徒歩にて椴法華村に辿り着き同所より海路、渡島丸にて尾札部に上陸、臼尻・鹿部両村を視察する傍ら漁港・道路に関する陳情を聞き、午後八時四十分予定より遅れて大沼公園、紅葉館に投宿した。
なお、同夜関係町村長は同館に於て歓迎晩餐会を開き、小杉七飯村長の挨拶に対して長官の謝辞があり十時半過ぎまで懇談をとげ第一日目の視察を終えた。(写真出発前の撮影で前列右より三人目小熊幸一郎翁、その隣りが佐上長官)
函館椴法華間準地方費道全線開通の翌月には北海道長官の視察が行われている。日程は皇室関係の行事に合わせたものらしいが、視察団は長官を中心に関係機関それぞれから、あるいは各部署からも集められ相当な人数に膨れ上がっている。一方、現地の受け入れ側は首長を陣頭指揮に、役場・議会関係者、婦人層・青年層・在郷軍人、児童までも動員し地域の熱意を示している。また現地での陳情は勿論のこと、歓迎の晩餐会を催し、その席上でも繰り返し行われたものと想像される。なお、今回の視察では長官自ら恵山登山を決行している。写真から判断すれば相当な年配と思われるし、日程上から、また登山道路の状況からも相当な強行軍だったと推察する。観光地として今売り出し中の恵山を、自らの足で目で確かめようとする行政府の長の姿勢は評価される。観光地として発展させる為には交通のアクセスが不可欠の条件である。
視察団に対する鳴り物入りの歓迎や夜の接待についての批判もあろうが、道路の開削改修については、いずれの地域もそれ相当の運動を繰り広げている中で、先発後進“悪路の下海岸”と呼ばれる下海岸の町村−なかんずく戸井・尻岸内・椴法華にとっては執拗に繰り返し陳情請願を進める他に打つ手はなかった。
以下は、町に現存する道路改修に関わる「請願書」(件名・陳情回数)である。
昭和三年(一九二八) 「準地方費道函館・椴法華線の地方費道編入昇格ノ件」
昭和三~十三年陳情二回
同 八年(一九三三) 「町村道古武井・木直線改良工事ノ件」
昭和八~十三年陳情五回
同 八年(一九三三) 「町村道荒砥線改良工事施行ノ件」
昭和八~十三年陳情五回
同 同 ( 同 ) 「日浦トンネル補強工事ノ件」
昭和八~十三年陳情五回
同 九年(一九三四) 「女那川・亀尾間道路(蛾眉野線)開削ノ件」
昭和九~十三年陳情四回
同 同 ( 同 ) 「古武井元・椴法華間町村道改良工事ノ件」
昭和九~十三年陳情四回
同十一年(一九三六) 「国有鉄道戸井線延長ノ件」
昭和十一~十三年陳情三回
同 同 ( 同 ) 「恵山景勝地内林道開削ノ件」
前出、大正13年の武石村長の請願書・菅原村長への引継書にも見るように、歴代村長にとって、住民の悲願でもある道路改修は政治生命をかけての仕事であった。
しかし、この時代、日本は急速に戦争の道を歩みはじめていた。昭和6年満州事変勃発、翌7年五・一五事件、8年には国際連盟脱退、昭和11年二・二六事件、翌12年日華事変勃発、昭和16年12月8日真珠湾攻撃・太平洋戦争に突入、政府は国力のすべてを戦争遂行に費やした。当然地方の財政も戦時経済体制のもと、非軍事土木建設事業は極力制限させられた。こうして14年もの長きにわたる戦争で、郷土の山は森林伐採により荒廃、そのため河川は荒れ堤防は随所で決壊、もちろん道路にも及んだ。もともと幕領時代の道を部分的な開削改修を繰り返してきた道路である。改修のできぬまま荒れる一方であった。僅かな村予算・勤労奉仕による仮補強工事で辛うじて通行できる状態を保つに過ぎなかった。この悪路は戦後もしばらく続いた。