下海岸一帯に和人が大挙して渡来したのは13世紀中頃、南部氏に追われた安東氏一族、渡党と呼ばれた人々である。彼等は館を築き和人村をつくりコタンのアイヌ達や下北からの出稼ぎ漁師の収獲する昆布や海産物を商った。彼等は大船に買い集めた昆布や海産物を満載、津軽海峡を西に走り日本海に入り、一族の地、津軽の十三湊・秋田の土崎湊を経由、能登の珠洲に寄港、珠洲岬をかわし、越前は若狭湾の敦賀・小浜へと運んだ。
この昆布の道が下海岸地方と内地を結ぶ太い、海上の交通路であった。
松前藩が蝦夷地の統治をする頃になると、この昆布の道は「北廻り」と呼ばれ17世紀(1670年頃)、河村瑞賢により開かれた「西廻り・大阪−瀬戸内−下関−北陸−奥羽に至る航路」に繋がる、本州と蝦夷地を結ぶ重要な航路として発展した。天和2年(1682)敦賀湊には、すでに、松前・江指(江差)の船宿が2軒ずつ、昆布屋・海産物問屋も6軒、営業していたという。
この北廻り航路を往来した船が「北前船(弁財船)」である。北陸の米を運んでくるので北米船と呼ばれたという説もあり、この北前船は、単なる運搬船ではなく、各地の産物を仕入れ・売買しながら航海するという、海のデパートであった。
このように、遠洋航海をする船であるから、船体も500石から千石積の大型船、しかも船腹の広い安定した形で、ドンブリ船とも呼ばれる時化に強い船であった。当時の幕府の船舶法は千石積以下で帆も1枚物と厳しいものであったが、18世紀後半になると船体も大形で安定性のある、帆も風向き・上げ下ろしなど滑車を用いて操作できる仕組みのものや、旗や飾りに見せかけて巧妙に2、3枚帆としたものなども現れた。
北前船の大型化、帆の構造・操作の工夫などは、それだけ北廻り航路・昆布の道は富をもたらす魅力的な商いができる航海であったからであろう。北前船1艘の建造費が蝦夷地と本州・上方の2回の航海で元を取ったと伝説的に伝えられている。
蝦夷地の海産物、とりわけ高価な値段で取引される昆布、北前船は日本海の荒波を越え、その主産地下海岸・陰海岸へ頻繁にやってきた。