これらの官船は、水主同心格長川沖右衛門・水主同心露木元右衛門と定雇船頭高田屋嘉兵衛の3名が統括し、船乗りは操船に熟練している者たちであったが、蝦夷地の海については不慣れなものも多く、また、新造の官船は完成を急ぐあまり船体が脆弱で難破する船が続出、前出の休明光記では46艘中24艘が破船、若しくは行方不明になったとある。幕府は官船の船賃を、雇船の借上賃に準じて幕府財政より支出、その中より船中の諸費を支払い、1ケ年ごとに決算し余剰金を稼出(かせぎだ)し金(利益)として幕府へ納入する仕組みを取った。しかし、諸経費がかさみ稼出(かせぎだ)し金も少なく、難破船のある時にはその費用を官から支出しても、尚且つ損失(赤字)となる事があった。
そこで、文化元年(1804)正月より、方法を改め、船賃の内、4乃至5割を船中諸費、4乃至5割を稼出(かせぎだ)し金として、残の1割を修繕料として箱館会所に貯蓄し破損船の修繕費とする事にした。さらに官船15艘を江戸・箱館運航用とし、定雇船頭の高田屋嘉兵衛に引き受けさせた。この年、難破船が多かったにもかかわらず、4千300両の利益を上げることができた。しかし、文化4年に数艘の難破船がでて官船の数は著しく減少した。そのため、貨物の運搬は官船だけでは足りず、箱館の商人の船や他国(本州)から来航した
船を雇入れた。高田屋の多くの持船が活躍したのはもちろんのことである。
以下に、文化2年の「運賃定」の一部を記す。
択捉島(金三五両) 色丹島(金三一両) 根室・国後島(金二五両)
十勝(金一八両) 山越内(金一〇両) 浦河より幌泉迄(金一四両)
沙流より三石迄(金一三両) 虻田より室蘭迄(金一〇両)
箱館より大阪上り(金二〇両) 江戸より箱館迄(金八両)
箱館より夏荷物江戸上り(金二五両)
根室・国後より秋味積仙台行(金三三両) 同銚子行(金四〇両)
根室・国後より秋味積江戸上がり(金四三両)