[昔の蝦夷地の船]

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 大昔の舟は、西洋も東洋も丸木舟であったということは常識である。
 山野を馳け廻って鳥やけもの(・・・)を狩していた人類、海洋に面した地域に棲(す)んでいた人類、大湖や大河に臨んだ人類は、海、湖、河にいる魚類、貝類、動物を漁して生活していた。大昔の人類を狩猟民族、漁撈民族に分けている。山幸彦と海幸彦の伝説は、これを物語るものである。
 原始時代は海岸、湖岸、河岸を移動して魚介類をとったり、水棲動物をとっていた人類も、次第に欲望が広がり、海、湖、河の上に行って漁撈することを考え、舟というものを造ることを知った。東洋も西洋も最初の舟はすべて一本の木をくりぬいた丸木舟であった。
 丸木舟を造ることを知った民族は、次第に大きな丸木舟を造ることを実行した。「クスの大木を倒して、国中の人々が総がかりで、大きな丸木舟を造り、大ぜいの人で漕いだら、鳥が飛ぶように走ったので、その舟に『早鳥(はやどり)』という名をつけた」という伝説はこれを物語るものである。
 原始民族が漁撈のために造り出した丸木舟が大型化してくると、物資の輸送に使われたり、近隣の民族との戦争や他民族を征服するために使われるようになり、「早鳥」のような丸木舟を造った民族が近隣の民族を征服して行った。
 丸木舟が大きくなると、目に見える遠くの島や陸地に渡って見たいという欲望が出てきて、帆で走ることを知り、風や潮流や天候を研究し、一度対岸に渡ることに成功すると、次第に遠いところへ行こうという欲望が無限に広がってくる。然し一本の木をくり抜いて造る丸木舟には限度があった。
 石器時代から金属を使うことを知るようになってから、板をつくりそれを釘などで継ぎ合わせて、思うような大きな船をつくるようになってからは、益々船が大型化し、戦争専門の船が造られ、他民族を征服する道具に使われるようになった。いつまでも丸木舟をつくることより知らなかった無欲な民族は取り残され、果てしない欲望を船に托して、丸木舟の域を脱し次々と大きな船を造った民族が世界の知識を吸収し、富を集め、他民族を征服して世界に君臨したのである。
 「海を制する者は世界を制す」という諺は、世界の民族の船の歴史を調べることによって理解できる。船によって他国と貿易して世界の富を集め、大型のいくさ船(○○○○)をたくさん造って他国を征服した国が栄えたのである。いくさ船(○○○○)によって他国を征服して繁栄していた国が、一度(ひとたび)海戦に敗れて、いくさ船(○○○○)を失い、忽ち没落したという例は世界の歴史に多い。
 船も限りなく進歩し、丸木舟から、金属を使った船になり近世では、軍艦はもちろん、商船も漁船もその船体が鉄になり、船を動かす力も、カイ(・・)やロ(・)で漕いだ時代から、帆走時代になり、近世になってからは機械力で走る時代になり、その燃料も石炭、石油、原子力となり、人類の欲望や夢を実現してきたのである。
 鳥類のように空を飛びたいという人類の夢が二十世紀には現実となり、人類が月世界に足跡を印する時代になった。こうして「海を制する者は世界を制す」という諺は時代おくれとなり「空を制する者は世界を制す」という時代になったのである。
 北海道は蝦夷地の名のごとく、明治初期の頃も全道各地に蝦夷が住んでいたので、丸木舟は明治時代も使われていた。然し三〇〇年以上も前から「縄綴船(なわとじぶね)」という釘を使わない大きな船を造っていたので、丸木舟は沿岸や河川で魚貝類をとったり、岬を渡ったり、河川を渡る時に使われるだけで、遠い沖合へ出て漁撈をしたり、海峡を渡る時は縄綴船を使ったのである。
 昔の蝦夷が津軽海峡を渡って、津軽、南部、秋田等へ行くのに丸木舟で往復したと考えている人々は、縄綴船の存在を知らないのである。

縄綴船(なわとじぶね)

 日本に滞在してキリスト教の布教をしていたルイス・フロイスが、永禄八年(一五六五)本国に書き送った報告書に、北海道の蝦夷が出羽のアキタに来て交易していると書いている。永禄八年といえば、今から四〇〇年以上も昔である。北海道の蝦夷が毎年七、八月頃に、津軽、南部、秋田へ交易にでかけていることが、いろいろな古文書に書かれている。交易に行くのだから、こちらからいろいろな物を積んで行き、帰りは又和人と交易した物を積んで来るので、船は丸木舟ではなくて縄綴船であったのである。

北前船(きたまえせん)

 
   丸木舟
 丸木舟は、大木を切り倒し、造ろうとする舟の長さに切り、カツオ節形に削って舟の形をつくり、中をえぐりとったものである。大型の丸木舟は舷の両べりに横木を二、三本渡して、狭まらないようにし、更にヘサキとトモにムシロを巻いて割れないようにした。
 縄綴船ができてからは、川舟、磯舟として使われるようになった。
 
   繩綴船(なわとじぶね)
 正徳五年(一七一五)松前藩主が、幕府に差出した書付の中に縄綴船についての一文がある。
 「蝦夷地より島々への渡り、十四、五里隔たり候所の渡海船は、高瀬船(たかせぶね)程の縄とじ船にて渡海仕り候」
 この報告書でもわかるように、松前から東西蝦夷地へ行く場合も、津軽海峡を渡って津軽、南部、秋田へ行くにも縄綴船を使ったのである。
 この船のつくり方は、舟底を丸木舟のように造り、両縁に薄い板を何枚か継ぎ足して深くし、シナの木の皮やツタ類でとじ合わせ、水が浸入しないよにしたものである。鉄釘などを全然使わなかったので、軽くて扱い易かった。縄でとじ合わせた船なので縄とじ船とよんだのである。
 蝦夷地は荒磯が多く、良い港が少かったので、どこへでも船を寄せ、陸地へ引揚げ、夜になれば、附近の木を切って堀立小屋を造って宿したのである。
 カイは車ガイを使い、帆は扇帆というものを使った」と。
 縄綴船の造り方と使用について『蝦夷松前聞書』にややくわしく述べられている。
 「松前より代物(しろもの)買いに行く船のうちに、ことごとく縄にてからみ仕立(した)て、板のはぎ目、少しの穴などは、山の苔にてこしらえたる船あり、二百石より五百石積ぐらいなり。これは蝦夷地の荒磯の場所に行きては、船をつなぐべき港もなく、置き所なき故、商(あきな)いに行く度々(たびたび)、船を陸に引き登(のぼ)せおくに、船板うすく、釘を用いざれば、軽くして扱い易く、海上を来る波を和(やわ)らぎて、乗りやすし。久しく囲う時は、縄を切りすて、船板を積み立て、雨覆いをなし、乗るべき時節には、又縄からみして乗り行くなり。但し港ある所へ行くは、常の船に異ならず」
 松前藩から幕府へ出した報告書の一文と、この説明を併せて読んで見ると、縄とじ船の造り方、大きさ、その用途が大体わかる。菅江真澄が道南を紀行した時の文章に「蝦夷船に乗り」とあるのは、縄とじ船である。
 『蝦夷松前聞書』に「港ある所へ行くは、常の船に異ならず」とある「常の船」というのは弁財船である。
 箱館、松前、江差などの港には、弁財船が碇していた。昔の東西蝦夷地に、弁財澗、弁財などの名が残っているが、その場所は弁財船の碇できる良港であったのである。
 戸井町の戸井川の川口にある入江を昔は弁財澗といい、弁財船の碇した澗(ま)である。弁財澗は字名になっていたが、昭和五年(一九三〇)九月五日の字名改正の時に弁財澗を弁才町と改めて今日に及んでいる。
 寛政三年(一七九一)五日、有珠登山を志して、松前を船で出発し、小安で一して、翌朝汐首岬の潮流を越え、「トユイ(戸井)の浦にて蝦夷船に乗りかえ云々」と『えぞのてぶり』に書いている。この頃〓谷藤家のあたりに、運上屋があった。蝦夷地の要所々々に運上屋のあった時代で、旅人や役人を送るために、各運上屋蝦夷船をおき、その船に来る蝦夷を雇っていた。真澄を送った蝦夷船は丸木船でなくて、縄とじ船であったのである。
 蝦夷昆布を採る舟は丸木舟であった。昔の蝦夷地の船は丸木舟から縄とじ船に代った時代で蝦夷時代が終り、和人時代になってからは、漁船として磯舟、川崎船、発動機船時代になった。
 海上の交通運輸のための船は、年々大型化し、スピードアップされ、フェリーボートが戸井と大間の海上を僅か一時間で結ぶようになった。過去一世紀を船の進歩からだけから考えて見ても、夢のような感じがする。