下海岸の商業の変遷といっても、蝦夷時代から明治時代までの数百年は、交通の便も悪く、狭い踏み分け道であり、川には橋もなく徒歩であったため、商店らしいものは皆無といってもよかった。
しかし、江戸時代の末期ともなると、松前を中心に蝦夷地産物の流通機構は徐々にではあるが成立して来ており、場所請負制度の成立過程と平行して商人も一時的、季節的なものであったが出入りを始めている。すなわち、場所請負人として産物を集積し、問屋として独占的に販売の権を持ち、海運業者として物資を運送し、そしてそれらを各地で販売していた商人団が箱館を根拠地として、この下海岸にも出入りしたであろうことは推測される。
時代は下るが、大正七年函館の東運汽船株式会社や函青汽船株式会社などが、北海道庁命令航路に従い、鯨洋丸、共益丸、渡島丸、忠福丸などの小蒸汽船や機帆船が定期船として就航し、下海岸の貨客輸送に当っていた。しかも、この命令航路が就航してからは益々陸行する者が減少した。
この頃、戸井村の汽船扱店として字館鼻に金沢回漕部、谷藤回漕部の二店があり、回漕店と呼ばれていた。
その後、関東を中心に生産されていた干鰯(ほしか)が減退するにおよんで、蝦夷地産の魚肥が注目されるようになるとこの下海岸も一躍脚光をあびて来た。その漁場を中心にタベトと呼ばれる行商人が、この地に出人りを始めた。
この行商人は、俗に三日タベトと呼ばれ、各漁場や近隣を荷担ぎをしながら売り歩いた。また、注文を受けて、三日がかりで箱館の問屋から品物を仕入れて、悪路をついてやって来るということを繰り返していた。その代表とも言われるのが、富山の薬売りであったが、この他、いかけ屋、種子物商、呉服商、小間物商(櫛・はさみ・バリカン・かみそり・縫い糸・縫い針・キセルから石油ランプまで持参していた)等である。
これらの人たちのために「旅人宿(木賃宿)があった。古くは〓佐藤・堀川・丹羽家なども副業の形でやっていたという。大体、二階を旅人宿として、一泊二食付きで一円三十銭という金額であった所もある。秋(九、十、十一月頃)の鰯の時期が主であった。また、まぐろの取れた時期(大正初期)には、まぐろ買いの業者が、お茶代として十五円もおいていったこともある。「チャンチャン坊主」といって支邦人の旅人も宿泊していたという。
その後、これらのタベトの一部の人や、漁業者の一部の人たちが兼業の形で商店を始めるようになり、呉服屋、雑貨店なども数は少なかったが、各地域に数軒出来てきている。これらの商店は、ただ店舗をかまえるだけでなく、行商も兼ねていた所が多い。しかも、何年も同一職種を結営する人は多くなく、店主そのものも次々と変遷していった。