明治六年

84 ~ 86 / 1354ページ
・一月一日 この日より太陽暦を使用する。
 明治五年十二月三日太陰暦を廃して太陽暦を使用するため、この日を新暦の明治六年一月元旦とする。
 この時から国や開拓使・学校などの公式行事はすべて太陽暦を使用するように定められたが、村民達の間では依然として太陰暦(旧暦)が使用されている。その理由は、長年の慣習であるお盆や正月・祭りなどの年中行事はそれぞれ伝統を持ち、人々の生活と密着し漁業の節目・節目で行われていたものであり、また漁師にとって必要な潮の満ち引きを知るために、どうしても使用しなければならない暦だったからである。
 太陽暦が使用された始めの頃は何かと不便を感じさせ、ぎこちないものであったが、時間の経過とともに次第に両者を使い分けるようになり、お役所・学校関係は新暦で、お盆・正月・花まつり・節句・冠婚葬祭等は、旧暦での風習が一般化されるようになっていった。
・二月 北海道開拓使は、弘明丸により函館・青森間の定期航路を開設し、郵便輸送も併せて実施する。
・二月二十四日 キリスト教禁止の高札を廃止する。
・三月三日 函館支庁『山林仮規則』により、野火発生の時は、村々協力の上消火活動を実施するように命ずる。
・三月 椴法華村、一村独立を開拓使函館支庁に願い出るが、本村尾札部村の証認印が無いことを理由として書類の再提出を求められる。
・五月 亀田・上磯・茅部・山越の四郡に大小区画制が実施され、従来の名主を副戸長に任じ、小頭・百姓代の名義を廃し村用係を置く。(六月五日実施としているものもある)
 
 六大区(茅部郡十四村を三小区に分ける)
 一小区→小安村・戸井村・尻岸内村・尾札部村支郷椴法華
 二小区→熊村・尾札部村・臼尻村・鹿部村・砂原村・掛澗村
 三小区→尾白内村・森村・鷲木村・落辺村
 
 この時椴法華村は支郷であるため副戸長は任命されず、村用係だけ三名任命されていた。(任命の月日は明らかではないが、九月には佐々木弥三郎・佐々木久七・川口勝次郎の三名が存在している)
・六月二十八日 函館-札幌間新道完成。
 七月二十日、『札幌本道』と名付ける。
・夏期、鰮豊漁
 この当時椴法華村の鰮漁(夏土用から八月下旬まで)と秋鰮(十月一日から十二月二十五日頃まで)であったが、夏漁の漁獲高が多く、五・六年と鰮の夏漁は豊漁に恵まれていた。(明治二十八年頃から鰮は秋漁が中心となる)
・九月 函館-森間馬車運行を始める。
・十一月 キリスト教信仰禁止令を廃止し、仇討(あだうち)禁止令を公布。
・十二月七日 尾札部村より出稼に来ていた飯田與五左衛門の出稼荷物(漁獲物と漁具)を沖の天一丸に移送中に持府船・筒替船各一艘が荒天のため荷物もろとも行方不明となる。(人命に異状なし)
・十二月十三日 函館より荷物積取のため椴法華へ向け航行中の天神丸根田内海岸にて破船する。
・十二月二十一日 椴法華より新鱈を積入れ出航した函館中川五助所有元一丸大時化のため椴法華村カジカ岩付近で破船となる。
・この年、椴法華村、村民の努力の結果畑面積拾町八反三畝となる。なお収量が少ないためか税の徴収が行われていなかった。(開墾地は無税であるが、古くから耕作されていた畑には税が徴収されるはずである)