明治三十七年

155 ~ 161 / 1354ページ
・二月五日 日露国交断絶し戦争に突入する。
・二月六日 ロシアとの戦機急を告げ、森・寿都・江差・函館に海岸監視哨が設置される。
・二月十日 ロシアに宣戦布告、歩兵第二十八聯隊から第二大隊が函館要塞守備隊として派遣される。また同日函館湾防禦海面令が施行され船舶の航行が制限される。
 
    北海タイムス (関係部分要約)明治三十七年二月十八日付
     函館防禦海面
   今回海軍省告示第二號を以て左の通り函館湾防禦海面區域を定められたり
  海軍省告示第二號
  明治三十七年三月十日より左の區域を函館湾防禦海面と定む
   明治三十七年二月十日
          海軍大臣男爵山本権兵衛
  辨天崎と矢不來を連接したる線と辨天崎を中心とする葛登支岬までの距離を半徑として書きたる圏とを以て包圍する海面
 
・二月十一日 ロシア浦塩艦隊四隻が突如津軽海峡西口に出現。この時小樽から酒田へ向け航行中の奈古浦丸千八十屯を襲い撃沈。更に他船舶を攻撃する気配をみせる。この報は函館区役所や関係海運会社、軍隊等に入電しこの時非常事態であると判断した函館区は、「明朝敵艦の砲撃を受けるかも知れぬ」と発表したと言われている。このため函館市中の緊張は極度に高まり大混乱となり、着のみ着のまま近在へ避難する老人や子供・非常時に備え店の戸を閉め切ってしまう者、貴重品や手まわりの日用品を馬車や荷車に積んで近在へ運び出す者等が多数あったと云われている。
 
    北海タイムス 明治三十七年二月十三日
  ●函館區の騒擾(十二日午後一時五十五分函館特發)
   昨日正午青森縣津軽郡艫舴(へさき)崎十哩沖にて汽船奈古浦丸全勝丸露艦四隻に取巻かれ奈古浦丸撃沈全勝丸雨を冒し全速力にて松前郡福島に逃げたりとの報達するや區民非常に騒擾し昨夜より今日に掛け近在に避難する者多く貯蓄銀行其他取付け俄かに増加し門前黒山を為せり要塞にては露艦の徘廻を寧ろ滑稽なりとし寄らば一撃の下に沈めんと準備怠りなし警備水雷艇も亦充分警戒し當地何等の心配も無きに區民の驚愕意外にて商店中には朝來舗を締切る者もあり定期航海は一時停止したるも本日開通すべし安心せよ。
  ●飛電頻々
  ●途説紛々(とせつふんぷん)
  ▲函館要塞發砲の説
   函館税務署より札幌税務監督局への來電に依れば、函館要塞發砲開始の模様あり同書にては重要書類の保管方に着手したりといふ
  △監督局への電報
   前報後函館税務署より札幌税務監督局へ達したる電報に曰く津軽海峡に露艦の出没を認め今にも砲火を接へんとする状況にせまりたるより函館地方の人心動揺避難の準備を爲すなど頗る騒然たり
  ▲露探十七名退去に就て
   今回函館に於いて函館要塞地司令官要塞砲兵大隊長砲兵大佐秋元盛之氏より露探嫌疑者十七名を退去せしめたることは、旣記の通りなるが右は要塞地帯法第八條要塞司令官は要塞地帯内に入り兵備の状況其他地形等を視察するものと認めたる時は之を要塞地帯外に退去せしむる事を得とあるに依り斷乎たる處分に出でしものにて是等嫌疑者の中には其の報道誠に機敏にて諸般の電報郵便等を發するに函館に於てせず弘前迄急行の上之れを應する抔(など)却(なか)々巧みになし居たりと云ふ。

函館要塞発砲の説 明治37年2月13日 北海タイムス

   この時、函館と下海岸及び陰海岸をつなぐ定期船は停ってしまい、村の古老の語るところによれば、「函館が攻撃されただの、青森か福島が砲撃されたそうだ」などと多数のデマが陸路伝わり、村民達は漁に出たくても出られない。海路函館へ行きたくても行けない日が何日も続いたと云われている。
 
  ○露国軍艦砲撃に関する新聞記事
    明治三十七年二月十三日 東奥日報
  ●渡嶋近海の日本商船砲撃(十一日午後十時福島発)北海道渡嶋國小島沖に於て帝國商船奈古浦丸(七百十余噸)は露國軍艦四隻の為めに砲撃せられ沈没したり同時に全勝丸(百九十四噸)も同じく露艦の砲撃を受け松前郡福山村に逃れたりとの報達せり
   因に奈古浦丸の實際噸数は、一、〇八四・五にして所有主は、越中新港南島門作、又た全勝丸の實際噸数は三一五余にして所有主は福山村宮崎嘉兵衛也。
  ●露艦の福山砲撃(十二日東京發至急報)
  露國軍艦は今朝來渡嶋國福山を砲撃しつつあり (以上一昨日昨日號外再録)
  ●福山砲撃の號外に就て
   昨日東京通信員より露艦朝來松前郡福山を砲撃しつゝありとの報ありとの電報達したるを以て一方には不取敢號外を出して市内の讀者に警報し他方には同地に打電して果して事實なるや否を確めたるに編輯〆切迄に返電に接せさるが某商店に於て問ひ合せたるに砲撃はなしとの返電ありたる由なれど東京に於ては専ら砲撃説は信せられ居るのみならず或る向へも其の報ありし由なれば少なくも其の近海に於て砲聲を聞きたるものありしより時節柄直ちに傅播せるものなるへきか尚ほ昨日市内に江差焼かれたりなどの風説さへありたるほとなれば、露艦は今も尚ほ同地方近海を出没し居るものか因みに云う某新聞の號外小附近、露艦徘徊との報は虚(きょ)説なるべしと
 
  ・二月十四日 函館要塞地帯戒嚴令施行
 
  ●函館戒嚴令施行区域
   一昨十四日函館港に戒嚴令を施行せられたが右は函館要塞地帯及之れに關する要塞地帯法第七條第三項の區域内即ち要塞三区基線より二千二百五十間以内の境界線より外方三千五百間以内の區域を臨戰地境と定めて戒嚴を行はるゝに至れるものなりと。
   (明治三十七年二月十六日 北海タイムス参考)
 
  ・六月三十日より七月一日にかけて、全道的に大豪雨に襲われる。
  ・七月一日 函館駅を現在の海岸町より若松町に移転する。(現在位置)
  ・七月一日 煙草の官営専売実施。
  ・七月二十日に至り、二月以後津輕海峽より姿を消していたロシア艦隊は再び津輕海峽に出現し、七月二十日は海峽を西から東にぬけ太平洋上で軍事行動を行い、七月三十日、今度は太平洋より日本海へ向け津軽海峡を抜けていった。『尻岸内町史』によれば、『七月三十日午後七時二十分"露艦三隻は只今恵山沖を東方に通過せり"』と函館支庁へ電報を発していることが記されている。
   また「函館附近の戰史」津輕要塞司令部編は、この時の様子を次のように記している。
 
    日露戰役露艦津軽海峡通過の概況
   七月二十日、浦鹽艦隊は突如白神岬沖に現出し、津軽海峡を東に通過し、太平洋に艦影を没せり、其行動別紙要圖其一の如くにして、脱出艦隊は恵山沖に於て英國汽船サマラー號を包圖臨検の後之を釋放し、尋て高島丸を撃沈、其後共同運輸丸を捕捉臨検し釋放の後、東南に向ひ急行せり。
   二十五日、敵艦隊は房州勝浦沖を東航中なりとの情報に接し、再び日本海に入らんとするものなるを判斷し、海峽禦艦艇は白神岬沖を哨戒し、要塞亦戦備を厳にして敵を待てり。
   三十日午後零時二十分、露艦三隻尻矢沖に現はれ、大澗沖より龍飛岬方向に向ひ進航中、青函連絡船駿河丸と約五哩の距離に於て遭遇せしも、之を顧ることなく日本海に脱出し針路を西南に轉じ、我視界を去れり。
 
 海峡に面する村々では、毎日毎日戦々恐々としており、椴法華村では漁業は出来ず定期船は停まったままで、食料の不足やふところ具合が心配であったと云われている。
・七月二十六日 旅順攻囲軍攻撃開始。
・八月三日 御真影奉置所新築。
・八月四日 第七師団に動員令が出され、十月二十日より清国に向け移動を開始する。
・九月二十一日 旅順二〇三高地激戦(十一月三十日占領)
・十月十五日 函館・小樽間鉄道開通。
・十一月 野戦第七師団旅順攻囲戦に参加。
・この年、日露戦争の勃発により樺太及び沿海州方面の漁場が休業状態となったため、下海岸地域より同方面へ出稼に行っていた者は働き先を失い道内に出稼場所を求めなければならなくなった。また日露戦争の戦禍を恐れた清国の貿易商達は、函館から帰国したため昆布や鯣(するめ)等の清国向けの輸出がストップしてしまい、水産物の価格は暴落しここでもまた庶民の生活は脅かされるような有様であった。
・この年、茅部地方の鰊不漁、椴法華の秋鰮大漁となる。
・この年、日露戦争に協力するために、村内では国債の消化・軍用物資や金銀の供出が実施され、学校では忠君愛国・義勇奉公等の精神が教え込まれていた。
 またこの時赤十字社や愛国婦人会の結成が奨励され、神社や寺院では必勝祈願祭や戦没者の追悼法要なども実施され、村全体が戦争に対する協力体制が取られるように組織化されつつあった。(椴法華村の愛国婦人会の結成は明治三十九年である)
・この年、三月政府は日露戦争の戦費を補うという名目のもとに、煙草専売法を公布し七月より早速実施。これによって政府は煙草の製造販売に関するほとんど全ての権利を独占するようになった。
・この年九月 与謝野晶子、『君死に給ふこと勿れ』を『明星』に発表する。
・この年、添田啞蟬坊、『ラッパ節』を作る。
・この年、椴法華村日露戦争の影響により経済的な打撃を受ける。

トドホッケ初至急電報日露戦争関係電報集


津軽海峡出現の浦塩艦隊 日露戦争関係電報集