アイヌ人勢力の実態

317 ~ 319 / 1354ページ
 箱館の旧家である榊家の『家譜附録』(北大図書館蔵)は、シャクシャインの乱における下海岸、茅部海岸のアイヌ人の動静を次のように記している。
 
     榊家、家譜附録
   寛文八戊年五月東夷地シブチャリの夷酋メナシクル、シャリシャイン(ママ)等蜂起して奸謀を企て松前より下蝦夷地江航行する運送船の米酒江毒薬を入て商船十九艘並鷹匠、通辞、船頭、水主とも都合二百七十三人を殺害し勢に乗じて攻登る由、戸井・尻岸内尾札部の夷人共より注進櫛の歯をひく如し當時亀田代官佐藤彦左衛門小人數にて大ニ當惑し吉右衛門に力を請ふ雄信(ママ)(雄降)欣然として領承し禦防の備等に日夜奔走勤勞せり
 
 右の文に記されているように、寛文八年(一六六八)東蝦夷地シブチャリのアイヌ人達が蜂起し、亀田、松前方面へ攻登ってくることを戸井、尻岸内尾札部アイヌ人達が、亀田番所(和人側)に注進して来ており、この時亀田番所の代官佐藤彦左衛門は、亀田番所を守備する者が小人数であるため、榊家の初代吉右衛門に援助をたのむと記されている。
 戸井、尻岸内尾札部アイヌ人が東部シブチャリのアイヌ人達とともに立ちあがらず、逆に蜂起を亀田番所に通報して来ているが、松前藩側に完全に従属しているものではなく、もし和人側の形勢が不利になった場合は、直ちにシブチャリのアイヌ側に付こうと考えられていたようである。
 寛文十年(一六七〇)の乱の様子を記した津軽藩乗田安右衛門の『蝦夷蜂起集書』(北大図書館蔵)によれば、次のように記されている。
 
    去年蜂起仕候狄共内談の事
  内浦と申所のおとな・あいこういん、くんぬいより上浦の惣おとな分に狄共用申候。あいこういん申上候は、我等事は御身方可申候。チャシ普請仕度候由申上候處に、松前より被仰付候は、左様ならばチャシ普請仕候。あいこういん奥意は、くんぬいやぶり申候は身方の由申候てくんぬいの人數此チャシヘ入、おもいの儘に下狄共に申合せ打殺可申覺悟仕候由申候。其證據にはあいこういんは松前ヘトハリを付け申候由申候。
  一 あいこういん申分、くんぬい破り申候は、下狄共に一味仕松前を責め申事手内の事可有御座候。奥下迄段々に觸廻し申候は、狄共皆不残手に付き可申候。惣嶋中弓矢取出で申狄數拾五萬可有御座と申候由。メノコ相添候は貳拾五萬程も可有御座と申候由申候事。
 
 内浦の惣おとな(くんぬいより、尻岸内あたりまでを支配する)アイコライン(アイツライ、アイコウインなどとも記す)は、自分の領地内にチャシを構築し、松前藩側が有利な時は、松前藩のために使用させ、アイヌ人側の旗色がいいときには、くんぬい出撃の松前軍勢をここに引き入れ、アイヌ人達で、打殺す計画をもっていたといわれる。その根拠としてアイコウインは、松前へとばり(忍び、内通者)を付けていることであると記している。更に、うわさによれば、アイコウインは、くんぬいの松前勢が敗れたならば、蝦夷地中のアイヌ人に触れをまわし松前を攻撃するとも言われていると記されている。