前項でも記したように、場所請負人が各場所の実支配を行うようになった天明年間(一七八一-八九)以来、六ヵ場所に出稼(漁業)に来る者が増加し、中には土着する者も出てくるようになり、これらの地方はやがて和人地同様となった。このため箱館奉行は次のような布達を発し、六ヵ場所を村並とすることにした。(幕府の承認は、四月十二日)
一 箱館最寄口蝦夷之内ノタヲイ迄、日本人多ク罷在候ニ付、村役人等申渡。箱館在々同様取扱候積ニ御座候事。
右之通取計申候ニ付申上置候以上
(寛政十二年)申三月 松平信濃守
石川左近将監
羽太庄左衛門
『中村小市郎報告』(松前蝦夷地海邊盛衰上書)寛政十年(一七九八)と『東夷周覧』享和元年(一八〇一)福居芳磨は当時の様子を次のように記している。
寛政十年、松前蝦夷地海邊盛衰上書
東蝦曽地カヤベ場所之儀鯡昆布共有レ之箱館在之百姓共出稼之場所ニ而十三四ヶ年以前迠(マデ)志(は)漁(イザリ)小屋三拾軒程有レ之候所、此度見請候得者八拾軒余ニ相成其上定居の場所ニ相成候由ニ而畑作等茂出来以前出稼之時分ゟ(ヨリ)村柄冝敷相見蝦曽地(エゾチ)躰ニ者無二御座一候。
午十一月 中村一郎
東夷周覧
箱館ヨリ東ノ方ニ六箇場所ト唱フル所アリ。此所、昔ハ夷人アリテ住居セシカ近来松前家領タリシトキヨリ日本人モ打交リテ稼業ヲナシケリ。コノセツ公領トナリシヨリ、此六箇場所ハ日本地トシ村号ヲ給リタリト云。尤箱館近在ナル故夷人ノ風俗モ自然日本ニ近ク言語モ大低ハ通スルナリ
地名ハ「オヤス」「トイ」「シリキシナイ」「オサッペ」「カヤベ」「ノタオイ」此六ヵ所ナリ。