幕府の再支配

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 安政元年(一八五四)の日米和親条約(神奈川条約)によって、箱館が安政二年(一八五五)三月から開港されることになり、安政元年幕府は松前藩に箱館とその付近五・六里の地を上知させ、箱館奉行所を設置し、奉行として竹内保徳堀利熙を任命した。
 その後安政二年(一八五五)二月二十三日、幕府は東は木古内より西は乙(おと)部村に至る海岸線を松前藩の領地として残し、これ以外のすべての土地を上知させ、これを箱館奉行の管轄下においた。
 箱館奉行は、安政元年六月三十日奉行所設置から慶応四年(一八六八)四月奉行所廃止まで二・三名ずつ任命されていたが、いずれも江戸幕府一流の人物が登用されていた。
 次に主な箱館奉行五名の人物歴について簡単に記すことにする。
 ・竹内保徳 安政元年(一八五四)箱館奉行、文久元年(一八六一)勘定奉行兼外国奉行となり、特命全権公使として欧州訪問、そののちロシアと樺太国境界問題協議、元治元年(一八六四)から大阪奉行となる。
 ・堀利熙  安政元年箱館奉行、のち外国奉行兼務、万延元年(一八六〇)プロシヤ条約問題で老中安藤対馬守と対立し切腹する。
 ・村垣範正 安政元年勘定吟味役、安政三年(一八五六)箱館奉行、同四年から外国奉行を兼任、更に同六年から勘定奉行を兼務、万延元年遣米副使、文久二年(一八六二)箱館奉行兼務を免ぜられる。
 ・小出秀美 文久二年(一八六二)箱館奉行、のち外国奉行兼務、慶応二年(一八六六)ロシア交渉使節、同年勘定奉行となる。
 ・杉浦勝誠 慶応二年(一八六六)箱館奉行、同三年勘定奉行兼務、同四年四月箱館奉行所廃止まで箱館奉行として勤務する。