南部藩の経営

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 蝦夷地を再度直轄した幕府は、安政二年(一八五五)三月二十七日仙台、秋田、南部、津軽、松前の諸藩に管轄区域を定めて警備に当たることを命じた。この時南部藩は箱館及び恵山岬から東蝦夷地幌別までの海岸線を受持つことになった。安政二年四月南部藩は早速、表御目付上山半右衛門、御勤定奉行新渡戸十次郎などに、これらの地域の実地見分を命じた。五月より調査を実施しそののちこの時の調査に基づき、箱館に元陣屋・室蘭に出張陣屋砂原長万部に屯所が設置され、警備が開始されることになった。
 次に『安政二年四月松前持場見分留新渡戸十次郎著(函館図書館蔵)』により調査の概要について記してみる。
 
  五月廿二日
  一 前同断(この部分「見分人数測量ニ罷出し」の記録有り)
  一 ヱサン岬ゟヲトスヘ海岸持場江頼入廻状左之通
   一 其所限之繪図面相認海陸山川野原之模様本道里数間道之有無遠近共相記候事
   一 村々並寺院人家何軒人別何程牛馬之多少何船何艘有合候哉之事
  右之通トゝホケ村役え頼遣為手当金百疋ツゝ被下之 (中略)
  六月廿三日
  一 見分人數一統並船越善四郎鈴木京助朝五時箱館出立
  一 小安會所ニ而一同晝仕度いたし直ニ出立罷越
  一 戸井ニ而配符之通相尤宿手配之儀は半右衛門、十次郎宿壹軒差添人數壹軒宿都合弐軒也
  六月廿四日朝
  一 戸井ゟ(より)尻岸内迄人馬継立ニ御座候得共大難所ニ御座候間、船ニ而御通行被下度旨村役人之者申出候旨庄之丞申出し何れニ而茂村々ニ而迷惑ニ相成不申様申達候處筒船弐艘ニ而御渡船被下度当申出六半時致出立し
  一 尻岸内ニ而茂前同段ニ付根田内迠船ニ而罷越シ
  一 根田内ニ而壹支度御持場境エサン崎迠罷越相成リ、上宿之積ニ先觸差出置候得共、尾札部迠追越候付椴法花江船手配之儀申越候様善平・庄之丞江申達之
   尤ヱサン岬ゟ御持場為測量左仲太文作九右衛門乘船罷越し
  一 椴法花ニ而直ニ船手配いたし測量船之外弐艘ニ而尾札部江暮頃着船ニ相成し
  六月廿五日晴
  一 尾札部ニ而晝支度之上臼尻江罷越止宿尤測量船之儀はホロヘツ迠相頼候様測量方江申渡之