干鱈と新鱈

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 渡島地方においては古くから鱈漁業が行われており、最初漁獲された鱈は蝦夷の食料として少量利用されるに過ぎなかったが、和人が六ヶ場所へ進出してくるにつれて、次第にその需要が多くなり、漁獲量もまたこれに伴って増加していった。
 この時代漁獲された鱈の大部分は、干鱈(ひだら)(別名乾鱈・棒鱈ともいう)に加工されており、『津軽一統志』寛文九年(一六六九)の項によれば、松前下口(東蝦夷地)の産物として各種の水産物に混じって干鱈の名が上げられている。
 その後全国的に塩の生産が増加し、内地からの入港船が塩をもたらすようになるや塩を利用した保存が可能となり、東蝦夷地では天明年間(一七八一-一七八九)に至り、新鱈(別名、塩鱈又はツボヌキといい、腸を抜いたもの主として冬季に生産する)の製造が盛んに行われるようになった。
 『松前史略』によれば、寛政元年(一七八九)に尾札部塩鱈が初めて江戸へ送られたと記されている。(椴法華はこの頃尾札部領に含まれていた)
 また享和三年(一八〇三)南部牛滝村慶祥丸は臼尻新鱈三万余本を積み、江戸へ向け出航し暴風にあい、カムサッカまで漂流した事件があったが、これなどは当時の鱈漁業の隆盛を物語るものであろう。(詳細は第十三編第二章海難事故の項を参照のこと)