その後天保初年(一八三〇年代)になり松前藩により、熊泊(大船)から戸井に至る地域に鱈請負の制度が設けられた。この制度の詳細については不明であるが、初代新鱈請負人には、国領平七、つづいて升屋定右衛門がなりその後何代目かは、はっきりしないが弘化二年(一八四五)頃には升屋善兵衛が請負人をしている。
松浦武四郎の『蝦夷日誌』弘化二年(一八四五)の記事によれば、鷲ノ木の所で「惣て此辺は人間地とはいへども古来は一村々々に請負人と云有て其村々を請負し也。今はなし。然れども此新鱈は今にても請負人にて則六ヶ場丈(だけ)を新鱈請と云て、当時箱館町升屋善兵衛なるもの致す也。」と記されている。また同書、砂原村の記事に「此辺より箱館口迄の新鱈を六ヶ場と云り」とある。
以上のようなことから江戸時代初期に始められた鱈漁業が江戸時代末頃に至って非常に盛んになってきていることが知られる。また鱈請負の始められたころは請負地域が、戸井から大船(現在臼尻)までの地域であったものが、その後弘化二年(一八四五)頃には、六ヶ場所全体(小安から茅部まで)にまで及んでいることがわかる。