鰮漁の実態

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 『嘉永七甲寅年三月六ヶ場所神社その他書上』により椴法華村と近村の鰮粕生産高と鰮網について記すことにする。
 このほかに安政二年(一八五五)長沢盛至の『東蝦夷地海岸図台帳』(要約)によれば、「網ハ鰯あみ二流、しまとまり・椴法華・やし里はま・同村中にあり、丑年出産物、いわし〆粕二百石」と記されている。
 これら二つの記事により、一八五三年頃尻岸内から尾札部に至る村々では引網により鰮漁がなされ、ほとんどが鰮粕に製造されていることが知られる。この頃内地では農業技術の発達により多量の肥料が必要とされており、六ヶ場所で生産された鰮粕の大部分が、内地向け肥料として積み出されていたものと考えられる。また安政四年(一八五七)箱館奉行堀利〓(としひろ)の蝦夷地巡視に随行した玉虫義の『入北記』によれば、椴法華村の記事として「小村ナレドモ鱈鮫或ハ鰯ノ類ヲ漁シ、且昆布ノ名産アリテ宜シキ村ナリ」と記されていることなどから考え、この頃としてはかなりの量の鰮粕が生産されており、昆布や鱈の収入には及ばないまでも、村民収入の重要な財源となっていたことが推定される。

嘉永六年の鰮漁


ドカイ船の図 明治14年「北海道漁具図説」(1)


ドカイ船の図 明治14年「北海道漁具図説」(2)


三半船の図 明治14年「北海道漁具図説」(1)


三半船の図 明治14年「北海道漁具図説」(2)


筒船の図 明治14年「北海道漁具図説」(1)


筒船の図 明治14年「北海道漁具図説」(2)


中船の図 明治14年「北海道漁具図説」(1)


中船の図 明治14年「北海道漁具図説」(2)


中船の図 明治14年「北海道漁具図説」(3)