飯田与五左衛門、延宝年間(一六七三-八一)宇佐八幡より勧請して神社を創立、恵山絶頂に奉祀、社号を恵山八幡宮と称す。恵山絶頂奉祀当時の社殿は、恵山山頂に立石有レ之其前に杭を違ひ、結立其の中に小なる堂祠を立て奉りたるものなり。其ノ跡地は今以て権現堂を建有り、文化初年頃高田屋嘉兵衛・秋田屋茂吉等、老人婦女子が参詣困難なるため現今ノ社地を撰定する。
文化十三・四年頃(一八一六・七)恵山硫黄堀取ノ為め領主松前公毎年金五両上納せる故に本社の祭祀を福山阿吽寺に命じ毎年十月二日祭典を執行する。
文政二年(一八一九)椴法華村字矢尻浜五番地に社殿建築
明治維新神仏混淆廃令により阿吽寺の神社奉仕を廃し函館八幡宮奉仕とする。
明治三十年九月十九日社殿改築す。
大正四年九月二十一日、幣帛料供進指定神社となる。
なお北見伝次著書『北海道旧纂図絵』によれば、『八幡神社、や志里浜右尾札部領に勧請年号不詳、享保二年(一七一七)八月十五日、藤山四代右京村中倶の再立」とある。
『北海道旧纂図絵』の内容を解釈してみると、八幡神社は、尾札部領や志里浜(矢尻浜)にあり、いつのころより祭られたものかは明らかではないが、享保二年(一七一七)八月十五日に藤山四代右京(亀田八幡宮の宮司、藤山氏の四代目右京)と村人たちにより再立されたということである。文中の藤山氏は代々亀田八幡宮の宮司を務め、当時は箱館から下海岸一帯の八幡神社に影響力を有していた。
なお『椴法華八幡神社明細帳』と『北海道旧纂図絵』の記述とでは、内容的に異なるが、現在その詳細については不明である。
その後『椴法華八幡神社明細帳』にあるように、文化十三・四年(一八一六・七)頃になり恵山硫黄掘取のため松前氏に税を納入することから、福山(現在の松前)にある阿吽寺に命じ祭典を執行するようになったようである。硫黄採掘の無事を祈願するためのものであろうか。このあと八幡神社の祭祀は阿吽寺により明治維新の神仏混淆廃令まで続けられている。
神仏混淆廃令というのは、江戸時代には、信仰の対象として神・仏がはっきりと分離されていなかったが、明治政府は、我が国は古来より神国であるとの理念に立ち、王政復古祭政一致に回復を願い神仏分離を命じた法令である。この法令により神仏分離がはっきりとなされた後、政府の神社に対する保護が厚く加えられるようになったものである。
明治五年七月、開拓使が北海道神社改正取調をした時の菊池重賢の『明治五年壬申八月巡回御用神社取調』によれば、明治五年当時の椴法華八幡宮の様子を次のように記している。
(茅部郡尾札部村枝郷椴法花)
同ヤジリ濱
△八幡宮 木像 立躬弓箭ヲ持、白衣紫八藤指貫卑シ。改彫又神鏡和幣ヲ以テ改祭可レ然カ。
祠一尺 拝殿二間ニ二間半 神門一
社地五間二拾間、起元不分明
なお八幡神社のことを示すものかどうかは明確ではないが、参考として記すと、『津軽一統志』の寛文十年(一六七〇)の記述の部分に、(写本によっては、やじり浜と記されたものもあるが)「やしろばま」・「やしろはま」、「やしろのはま」などと記された写本がある、若しもこの「やしろ」の語が「社」すなわち「神社」を示すものであるとするならば、このころ既に椴法華に神社が存在していたことになる。『津軽一統志』の古い写本では、たいてい「やしろ」となっていることから考え、「やしろ」から「やじり」に変化したものではないかと考えられる。
八幡神宮再立の記事 「北海道旧纂図絵」 函館図書館蔵