蝦夷地においては古くから疫病の発生がみられ、中でも疱瘡の流行は、保健知識や医療機関の全く無に等しい状況の中で、その伝染力はすさまじいものがあり、アイヌ人口の減少の一因ともなっている。
またこの他にも、梅毒・結核・風土病等があり、これらの病気に対する治療・消毒・予防等の対策がなく、病気によっては自然におさまるのを待つか、あるいは死を待つのみしか他に道はなかったのである。
古い時代から何度か流行が繰り返された疫病の中から、下海岸地方と関係があるものと思われるものについて、次にいくつかの事例を記してみることにする。
寛永の天然痘流行
寛永元年(一六二四)初夏から二、三年にかけて天然痘が流行し、和人・蝦夷人で死ぬ者が多く、ことに小児が多く死亡した(『新北海道史第二巻』)
万治元年の天然痘流行
万治元年(一六五八)春・夏の間、天然痘が流行し、死亡者が多く、秋には亀田に蔓延する(『新北海道史第二巻』)
寛政十二年の疱瘡流行
寛政十二年(一八〇〇)下夷地に疱瘡が流行し、蝦夷人は山奥へ逃げ去った(『松前年歴捷徑』)
文化六年尾札部の痘瘡流行
文化六年(一八〇九)尾札部で痘瘡が流行し、在住アイヌ人の内、実に壮年者の七割が死亡、このため夷人歩役(アイヌ人にかかる税)を減額した。
弘化二年より四年に至る(一八四五―四七)記事をまとめた松浦武四郎の『蝦夷日誌』は、この時のことについて次のように記している。
寛政十二申年改、一金百十五両、尾札部村、四月一歩、九月九歩、三十五両村割、拾二両二歩夷人歩役、但夷人歩役金十二両二歩の処、文化六巳年疱瘡流行に付夷人七八歩死失候に付願に依て翌年より八両づつ相納候処、其後又々夷人死失、残り夷人子供のみにて稼方もの一向不足に候由依て金五両相納
椴法華の霍乱病(カクランビョウ)
『松前天保凶荒録』によれば椴法華村で、「天保八年(一八三七)ニ至り霍乱病流行シテ多ク死シタリト云フ。」と記されている。(霍乱病)(カクランビョウ)=急性腸カタル・コレラ・疫痢等の病気のことを意味する。)