現在の集落は、漁業を中心に発展したために南海岸から八幡町、浜町と北に細長く伸びて矢尻川川口の北である銚子へと続いている。平野部には戸数が少なく、絵紙川など山間部では農業を営む人達が住んでいる。
このように現在の集落から先史の遺跡を推定すると、村が発展する過程と先史の遺跡が重複しているのではないかと考えられがちであるが、自然の立地条件から遺跡をみると、むしろ現在の村落発達とはあまり関係がないことがわかり、遺跡は自然立地に適応している。
八幡町や浜町にも遺跡があるが、矢尻川の流域やその丘陵に遺跡が埋没しているのである。椴法華村の遺跡を最初に発見したのは、昭和七年頃で恵山町に住んでいた玉谷勝氏と函館の能登川隆氏でなかったかと考えられる。この記録はさだかでないが、能登川氏が函館の住吉町遺跡から出土する底の先が尖った尖底土器に関心を持って、その収集につとめたが、椴法華式尖底土器はこの頃集められたものである。その椴法華式尖底土器の遺跡の確認を目的に調査したのが、昭和二十六年十一月十三日である。市立函館博物館では戸井町、恵山町を調査し、椴法華村では浜町の貝塚、矢尻川流域も調査した。この頃は平野部に畑があって、地表調査で土器や石器が採集できた。いまから四十年ほど前でしかないが、村の移り変りは、この頃からみるといまも変りつつあり、数千年も前に較べれば大きく変っている。
道南地方では各地で発掘調査が進み、新しい史実が公表されているが、椴法華だけはまだ正式な発掘調査がない。昭和二十六年の調査概要は「日本考古学年報 昭和二六年」に述べているが、矢尻川の流域と浜町の砂丘にあった遺跡を報告したに過ぎない。遺跡の所在調査は、昭和三十六年になって全国的遺跡台帳の作製事業がはじめられ、北海道教育庁でも文化財係が各支庁を通じて市町村の遺跡台帳をまとめた。これが昭和三十八年の「全国遺跡分布図 北海道」である。椴法華村教育委員会では、昭和三十七年三月十七日に遺跡別カードを作成して道教育庁に提出したが、このときになって村内の遺跡所在が明らかになったといえる。これを補足調査していたのが昭和五十一年五月で、北海道教育委員会の埋蔵文化財主事が、実際に遺跡を調査して「埋蔵文化財包蔵地調査カード」を遺跡単位に作成し、登録番号が記入された。この調査と遺跡の登録番号は、道路、宅地造成、農地開発事業などで遺跡が破壊されるのを保護する基礎的なもので、遺跡立地や遺跡範囲、規模まで記入されている。
遺跡数は登録されているものが九ヵ所であるが、まだ多くの遺跡が埋蔵されていると考えられる。
海岸線をみると、水無海浜温泉から椴法華港のある元村までの標高四十メートルから七十メートルの段丘は、遺跡が確認されていないが、南茅部町などのように地上に石器や土器片が発見されなくても道路などを開さくしたときに先史時代の集落が発見されているように、地形などの条件が似ているので、これからの発見が期待される地域である。
元村から村の中心である八幡町までの間は道道椴法華港線が走るが、椴法華港のある元村は山津波など発生した地域で漁港としては適しているが丘陵や砂丘発達がみられず、島泊までは海岸に道路と家屋が並んでいるが、後背地は山で遺跡の発見はみられない。この地域は元村川、乱塔川など丸山の山裾に沢やさほど大きくない川がある。亀田半島の北東海岸に共通する地形であるが、海岸の川口近くに遺跡が存在していることがある。規模は比較的小さく、縄文時代の終末から続縄文時代の遺跡で、あまり調査することができなかったが、遺跡が発見されてもよい地域と思われる。
椴法華村の遺跡として集中的にみられるのは、八幡町を中心とする南の島泊、北の浜町の範囲である。島泊の番屋川をはさんで両側の丘陵や八幡川をはさむ両側の丘陵に遺跡がある。サルカイ遺跡、サルカイ2遺跡、椴法華遺跡、大龍寺遺跡である。旧村役場があった地域は村の中心であり、八幡神社、大龍寺、旧村教育委員会から西にかけての一帯は建物と石積みなど住宅が密集しているため、土地の空間をみつけて土器の破片や石器の破片を採集したり、教育委員会や住民の方々が採集した資料で確認調査したが、この一帯はかなり大きな遺跡地帯であったといえる。時期的な変化が遺跡単位でみられ、それぞれに共通している時期の資料があるため、かつては大きな遺跡であって、現在便宜的に遺跡名をつけているが、それらを総称して椴法華遺跡と呼ぶべきであったかも知れない。
村落としても道道椴法華港線、国道二七八号線が交叉する戸数の密集地帯であって、生活する自然条件を最も備えた地域であり、先史時代も八幡川流域の小高い丘陵は生活に適した地域であったといえる。番屋川流域のサルカイ遺跡は資料が断片的であるが、これも番屋川によって二分されているが、共通する時期があり、同時期に生活した遺跡といえる。
浜町は、八幡町に隣接して海岸沿いに矢尻川にいたるが、砂丘発達がみられる。すでに現況は昭和二十六年と異って砂丘発達の様子をみることができないが、亀田半島の北東海岸をみると森町から椴法華村までの間で、このように発達した砂丘はみられない。海岸に道路があって、かつては家屋が砂丘を背にして並んでいた。遺跡は家屋が並らぶ後背地に海岸線に沿って長く伸びた標高三米ほどの砂丘にあって、再調査した結果砂丘の東に面する地点で深さ一メートル近くまで貝層や遺物を含む地層の堆積が認められた。
矢尻川の北側には丘陵の発達がある。丘陵から平地は畑地であったが、現在では畑地が少なくなり、丘陵は植林地帯に変ってしまった。銚子遺跡は畑地の丘陵と植林の境界で発見したが、現在は植林のため、丘陵地帯を調査することが難しくなってしまった。縄文中期の遺跡であったので、この丘陵地帯には比較的広い面積の遺跡があったと考えられる。
海岸地帯に対して、矢尻川の上流に遺跡がある。椴法華村の山地部の遺跡ともいうもので、絵紙川、栳岱川流域である。
この山地部は、矢尻川の上流である絵紙川や栳岱川は、絵紙川の山麓の一部といってよいだろう。この一帯に遺跡があることがわかったのは比較的新しい。絵紙山の小原茂雄氏や稲垣利行氏、五ノ井正二氏が畑作などをして石器や土器が出土することを知っていたが、昭和五十一年になって北海道教育委員会文化課が遺跡調査してから遺跡台帳に登録されたのである。
地形的にみると矢尻川の上流域は、すでに山地である。国道二七八号線を椴法華の海岸から尻岸内町に向うと海向山の山麓にさしかかり、右手に平野を見下すが、冷水川の水源地を過ぎていくと海見橋にさしかかる。標高七十メートルほどであるが、このあたりから国道は山あいの低い所をぬけて椴法華村から尻岸内町に行く。海見橋は矢尻川の上流にかかる橋で川が細くなっている。五ノ井正二氏の畑は海見橋より四百メートルほど手前の右手にある低い河岸段丘にあるが、山間の樹林は道南地方でも極めて珍らしい。杉木立も立派である。この樹林などから土器や石器が発見されたといわれている。小原茂雄氏の畑は、海見橋の右手で矢尻川を渡ると林道にさしかかるが、支流になるブナタイ川がある。川幅は五メートルほどであるが、この川の東側に段丘面があり、ここから石器や土器が発見されている。稲垣利行氏の畑は、五ノ井氏の畑から北に千二百メートル入ったところで、矢尻川の支流である絵紙川の上流にあたる。標高百三十メートルもあるところで、椴法華村の遺跡ではもっとも高い所にある遺跡である。遺跡面積は明らかでないが、稲垣氏の住宅の裏手にあって、傾斜地をいくつかの沢が切り込んでいる。土器や石器が出土する場所は、沢と沢の間にあるわずかばかりの平坦地である。稲垣氏の家の前にある道をさらに上っていくと長内氏のシイタケ栽培地が両側に続いているが、稲垣氏の家のあたりからは山地で平坦地といえるところがなく、勾配も急になる。この道路は通称開拓道路と呼んでいる。
絵紙山の山麓は、山裾が伸びていくつかの丘陵を形成しているところでなく、周辺の山が接していて、矢尻川と支流によって形造られたわずかばかりの平坦地があるにすぎない。道南地方の遺跡所在地の山麓とは条件が異っている。この一帯にある畑地の人達は、終戦になって開拓に入った人達であり、遺跡の発見は開墾によってなされたといってよい。こうした山間地域に遺跡がいくらかでも発見されていることは、まだ、近くで発見される可能性もあるが、狩猟の季節的な集落であったとみてよいであろう。
矢尻川の南段丘面は、地形的にみると遺跡が存在しているように考えられる。国道二七八号線は標高六十メートルを東西に走っているが、この沿線の地層では遺物を発見することができなかった。
遺物包含地
遺物包含地
遺物包含地 | |
1 | サルカイ1遺跡 |
2 | 椴法華遺跡 |
3 | 浜町砂丘遺跡 |
4 | 絵紙山遺跡 |
5 | 大龍寺遺跡 |
6 | サルカイ2遺跡 |
7 | 絵紙山2遺跡 |
8 | 絵紙山3遺跡 |
9 | 銚子遺跡 |
10 | 赤井川遺跡 |
11 | オンコの木沢遺跡 |
12 | 浜町遺跡 |
椴法華村の遺跡分布は、確認できた遺跡数は多くないが、漁業を主として発展した村と考えられた先史の世界は漁業より狩猟生活の時代が古くからあったと考えられる。
海岸だけでなく、山間部の開拓地にも遺跡があって、すでに縄文時代に生活の跡が認められている。この地域の生活環境は、自然の恩恵を受けた人間の生活に適していたことがわかる。
縄文時代の初めから終りまでの五千年間と縄文時代が終って、続縄文時代までの遺跡がある。しかし、続縄文時代の中頃から以降の奈良・平安時代から江戸時代前半までの遺跡がないことは、亀田半島の各町村と似ている。