志海苔で古銭の大甕出土

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 昭和四三年七月一六日、国道二七八号線志海苔地区の改良工事中に、古銭がザクザクと大甕三個つぎつぎに工事現場の土中から出現した。工事関係者の驚きは勿論のこと、文化財担当者、古銭研究者に大きな衝撃を与え反響をよんだ。出土古銭に与えられて公表された名称は「銭亀古銭」である。

海保嶺夫「近世の北海道」参考

 出土した大甕と古銭は、市立函館博物館に運ばれて学芸員千代肇らおおぜいの人の手で整理された。確認された種別九四種、枚数三七万四、四三六枚。出土直後四散したものや欠損破片のものなどをふくめ、およそ五〇万枚が収蔵されていたものと推定された。
 大甕は、いわゆる古来、土地の人々に伝えられていた「銭貨の入った甕のある地」というところから、銭亀沢村の地名の起源ともなっていたところである。銭亀古銭はまさに幻ならぬ正夢として歴史の証人となった。
 出土の地は函館市志海苔町二四七番地の国道で、史蹟志海苔館と約一〇〇メートルの至近の海岸通りであった。
 蝦夷地北海道と和人、日本人とのかかわりの歴史の解明にとっても大きな新史料となった。
 銭貨のうち中国銭が主体を占めた。鋳造年代は約一五〇〇年間にわたるもので、最も新しい鋳貨は、明の洪武通宝(正平二二年 一三六八)発行のものであった。次代の鋳貨である永楽通宝(応承一八年 一四一一)は一枚もなかったという。
 皇朝銭といわれる日本国内で鋳造された銭貨は古来一二種あるが、この一二種のうち八種が銭亀古銭にふくまれていた。
 志海苔の砂浜に誰が、いつ、どんな目的で、莫大な銭貨をいれた大甕を埋めたのか。なぜ大甕に銭貨を入れて埋めなければならなかった事情が出来したのか。とにかく志海苔の地で銭貨が流通し、所蔵される商取引がおこなわれ、多くの人びとが活動していたことになる。
 その最も年代のわかい銭貨をもとに、銭甕が埋められた年代を一四〇〇年前後とみると、
―北海道史年表によると、函館称名寺に残る「貞治の碑」(一三五九)の四〇年後のことである。
―日本史年表によると、後小松天皇の御代で、年号は応永七年(一四〇〇)、将軍足利義満が太政大臣となり、将軍職は義持になって間もないときである。
 応永一八年(一四一一)、東北では南部守行が秋田に出兵の戦(いく)さがあった。同三〇年(一四二三)に安藤陸奥守から幕府に馬二〇匹、鳥五、〇〇〇羽、鵞眠二万匹、海虎皮三〇枚、昆布五〇〇枚献上すると記されている。
 この頃、夷後藤の祖といわれる鍛治、後藤の徒が、乱をさけて京都から松前に渡来したという。(新北海道史)
 享徳三年(一四五四)になると松前家の祖となる武田信広がのちの箱館館主河野政通らと、潮潟政季(下国政季)に従って南部の大畑から蝦夷地に渡海してくる時代となる。志海苔の砂浜に、ある人びとによって大量の中国銭貨が何かのために集まっていたことは、さまざまな歴史ドラマを想定させるに充分な舞台設定となるのである。