箱館在

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 翌享和元年(一八〇一)、滕知文はその著「東夷周覧」に次のように記す。
 
 「箱館ヨリ東ノ方ニ六箇場所(ろつかばしよ)ト唱フル所アリ。此所、昔ハ夷人アリテ住居セシカ、近年松前家領タリシトキヨリ、日本人モ打交リテ稼業ヲナシケリ。
 コノ節公領トナリシヨリ、此六ケ場所ハ日本地トシ、村号ヲ給リタリト云。尤箱館近在ナル故、夷人ノ風俗モ自然日本ニ近ク、言語モ大底(抵)ハ通スルナリ。
 地名ハ「オヤス」「トイ」「シリキシナイ」「オサツベ」「カヤベ」「ノタオイ」此六ケ所ナリ。」
 
とある。この時期から名実ともに郷土は箱館六箇場所と呼ばれるようになったのである。
 郷土が村並としてその自治を任されるようになった年時については、河野常吉編「北海道史附録年表」には、享保元年(一八〇一)「是歳幕府六箇場所小安・戸井・尻岸内尾札部茅部野田追の地、和人の住居するもの多きを以て村並となし、山越内を華夷の境界となす」と記されている。
 こののち文化一四年(一八一七)五月、臼尻尾札部より分かち、村並となった。
 六箇場所の村並が村となるのは、幕府による蝦夷地再直轄がおこなわれてからの安政五年(一八五八)で、六箇場所中の村の数は一〇箇村であった。