〔幕末郷土の鉱山開発〕

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 市立函館図書館に所蔵されている文化年間の箱館在村々の地図がある。ここに亀田・赤川から山間を切って朱の筋が郷土に向かって走っている。「イソヤ道」と記されている。磯谷川の川筋か大船川の川筋かはさだかでない。磯谷川と思われる方には逆に「赤川道」と示されている。
 直轄となった東蝦夷地に、幕府は督励して道路の開削、逓送の制度をすすめていくが、ここにあるのは山中の道である。未開の時代に未開の地に、何の目的でこの道を設定したのか。この山道は、赤川から磯谷川へかけての鉱山探査の道すじとみるのが、その後の動きから推測される。
 弘化二年(一八四五)、郷土を巡回した松浦武四郎は、蝦夷日誌の磯谷のところで、深瀬鴻斎老の話しに「此山中に白英多しと。其余さまざまの石有よし也」と述べる。二艘トマリとヲヒカタのところに「大岩重なりて海岸の風景よろし。此処岩石の色赤黄の色を帯、是より十丁斗(ばかり)山に入り硫黄よし。又鉛気も多し」と記している。
 また、その翌々年、弘化四年の夏再び来ると、「鉛気岩間に噴出し、吹出さば数日を待たずして大利を得べし」と記しているが、大船川、磯谷川の上流、現在の泣面山の近くは有望な鉱脈があることは、早くから知られていたようである。
 安政四年(一八五七)四月二五日より五月一日まで堀鎮台(奉行)は、少数の供揃いで六ヶ場所のうち戸井・古武井・恵山・尾札部川汲を巡回、川汲山道を越えて箱館に帰る六日間の強行日程で近在を巡り、ついで木古内まで巡検している。玉虫義の刻明な巡行の誌である「入北記」をみると、蝦夷地の実地見分にあたって、古武井では武田菱三郎の瓦焼場で「ホウギョヘン」「ハンシャロ」の設置を見、恵山山頂の硫黄の旧釜、新釜をみている。
 のち、小舟にて古部に上陸して、黄土黄石の採掘をみて沖の岩島で赤石などをみる。のち、海路小舟で尾札部に渡り、会所に一尾札部会所より一〇丁ばかり西南の官業の燧石山をみる。未だ一、二間の掘削と歎く。
 川汲村では、小頭酒井屋重兵衛の案内で、これも官業の精進川の鉛山を一見している。ここは以前、箱館町納豆谷喜左衛門が願出て、採掘に当たったところである。
 そして海岸より滝沢(たきのさわ)金山に至る。昨安政三年(一八五六)夏中より官業で掘削をはじめ、未だ二五間ほどの坑道であったという。湯宿の近くに局あり。掛り役は益田鷹之助と記している。その鉛と銀を吹分ける様をみる。
 局に一して五月一日、半里ばかりいき左折して一〇丁ばかり、二股沢の奥にあった盛山(さかりやま)鉱山を一見す。坑道掘削二六、七間と記されている。
 各鉱山いずれも未だ本格的な産出がなかったとしている。
 古い川汲峠をこえて官業の砥石山を見分し、野田部を経て箱館の旅館称名寺に帰館した。
 まさに鉱山開発見分の巡回であったことがわかる。幕末の蝦夷地において、道南の鉱山開発が嘱望されていたことを示している。(上巻二九八頁「入北記」参照)