起原年月は不詳であるが、口碑に旧土人の発見によると伝えられる。
往時は温泉はだれの所有ということはなく、自然に湧出する温泉を僅かに堰止めて山仕事に入った人たちが、自由に浴みしていたと思われる。
文化年間と思われる絵図に、箱館在赤川村より「イソヤ道」と記されている道も通じていて、この頃すでに磯谷村には数戸の来住があって漁業を営み、人々は里の守神として稲荷社を祀っていたという。
弘化二年、松浦武四郎がこの海岸を巡回の砌り、すでに無人なざら湯壺と粗末な小屋があるときいて山中にこの湯を訪れて宿とした。これをききつけて来た村の漁師たちと一夜を談じ明かしたという(「蝦夷日誌」巻五)。
また、武四郎は、磯谷川上流に鉱石を探査する者もあり、と記している。
松浦武四郎「蝦夷日誌」により当時の磯谷温泉のことを詳述すると、磯谷の人家は二軒でアイヌの家一軒あった。磯谷は夏分、昆布採りでにぎわうので出小屋のほかに小商人も箱館から出張してくる。
村から少し山に入ったところに温泉があって、小さな笹小屋が一軒建っていた。平日は湯守もいない。湯に入る人は、ここに来て自分で小屋懸けをして自由に湯治をしていた。
温泉の効能は「疝気・疹・疥癬・切疵・眠気・積聚・瘤飲そのほか腫れものなど一切によろしい」。
ここの湯は玲瓏という言葉で言いあらわすことができないほど澄みきって、玉気であるかと思われるほど美しかった。
武四郎がこの山陰に宿泊しているときいて、村の昆布取小屋の漁師たちが酒肴を携えて村からのぼってきて、四方山の話などをして、その夜の東雲頃まで、榾火で鮮魚を炙っては食べてすごしてしまったので、明け方一睡しただけで出立することになった。
出立のとき、昨夜の昆布取りの漁師たちが草鞋代だといって当百三枚を武四郎に贈った。また、一人の者は極上等の昆布の中程を三十枚ばかりを「旅のつれづれにたべたらいいだろ」といって贈り物をしてくれた。このとき武四郎がうけた「村人の親切は中々筆で書き尽せないほどであった」と、蝦夷日記に記している。
武四郎は、のちに知人の山田三郎に磯谷温泉の話をしたところ、同人も磯谷温泉に一度行ったことがあるといい、温泉の効能は疝気によく験くともいっている。
山田三郎は、ここの湯は玉気に相違ない、その理由は三、四尺の底に一粒の米を入れてもはっきり見えるほど透明に澄んだ湯であると話していた。
また、箱館の深瀬鴻斎老の話では、磯谷の山中に白石英が多く、そのほかさまざまの種類の石があるということだった。
のち、砂原村、吉田富蔵が湯守りとなったという。さらに臼尻村、中村彦兵衛がこれを譲り受けて、僅かに浴場に茅屋を設けた。
明治五年ごろ、熊泊村の川内庄三郎が譲り受けて、官より温泉地二六四坪を拝借して山間の荊刺を刈り払い、森林を伐採して温泉場の周囲をととのえ、入湯者の往来の便をはかった。
明治一三年、開拓使庁の頃、官立函館病院の医員に泉質の分析調査を依頼して、泉質証明を得たこともあるという。
明治二六年中、家屋を建築し、浴室の構造を改め面目を一新し、ようやく温泉の薬効も近隣の村々に知られるようになったようである。
明治三四年、新たに泉質の分析を臼尻村立病院長に託し、その結果、亜爾加里性硫黄泉で神経諸症・皮膚病・梅毒に特効あることを証明された。
明治三五年(「町村誌」)、のちの熊泊鉱山主となった横浜の人押野常松がこれを譲り受け、家屋を改造し湯元ならびに温泉地域を四反二畝二六歩に拡張した。
同人の二女に経営をまかせ営業をした。
明治の末から大正中、熊泊鉱山が盛んになるにつれて来往の者も多く、薬効も広く知られるようになり、湯治・宿泊の客も賑わった。
大正町村誌に「春は前山桜雲に包まれ、夏は四囲の青山(嵐)涼風を送り、秋は紅葉錦繡を飾り、冬は寒月皎々として中空に冴えて前川に金砂を流す。四季の風光まことに人目を楽しましむるものあり」と記されている。
磯谷温泉 大正7年「町村誌」 北海道所蔵
大正年間、浜谷きくが譲り受け、二階建の温泉旅館を新築して客室一一室、はまや温泉旅館を経営した。
昭和七年、臼尻村勢一班には「磯谷温泉朝日旅館」と記されている。大正一二年より磯谷川発電所の開始とともに用務の客も増加して、春秋の湯治や、山間のひなびた味を求め、はるばる訪れる客も多くなり、館主の郷土料理も好評で戦後もながく繁昌した。
磯谷温泉の絵葉書 昭和10年ごろ 中本家所蔵
昭和四八年、東海不動産が譲り受けたが、温泉旅館の経営は湯守にまかせただけで、ついに無人となり浴舎も閉鎖され、昭和六〇年、旧館の建物は解体撤去された。