昔、郷土の沿岸は村里から村里へ、嶮しい坂道を登り山越えをしたので、多くは船便で往来した。
箱館から船で戸井海岸を進み、恵山岬をまわって椴法華を経る尾札部への船便は、搔き送り船といわれた。
尻岸内の会所から椴法華へ、そして尾札部の会所と引き継ぐ。椴法華から古部・木直・尾札部の往来をする船便は会所(以前は運上屋)の大事な役目であった。
寛政三年(一七九一)、菅江真澄はアイヌの舟に搔き送られて、尻岸内(恵山町)の運上屋から椴法華へ、そして尾札部の運上屋に、ここで一泊してさらにアイヌの舟に送られて臼尻の運上屋で乗りついで鹿部の運上屋にと、舟旅をして鹿部から草原を砂原へ出て臼(有珠)詣でをしたと記されている。
箱館在六か場所のうちの山陰(かげ)在といわれた郷土の唯一の交通は海路に頼る永い歴史があり、搔き送り船(かきおくりぶね)はかけがえのない交通機関であった。
木直〓小田原幸作文書(佐藤忠一所蔵)によれば、慶応年間から明治の初年にかけて、木直村に寄港したおもな船名が記されている。
神清丸 茂辺地村清治郎船
長永丸 三蔵船
海運丸 長治郎
箱館の海産物商である弁天町イ越中屋井村利兵衛の店の船である。木直村へ米噌や漁具資材が積送されてきていた。