このような遺跡は、北は北海道から西は近畿地方にまで広がりをみせるが、分布は北海道と東北北部に多く(79)、したがって北方文化を特色づける遺構遺跡であろうか。青森県で確認されている八遺跡のなかで、環状列石ないしはそれに準ずるものとして報告されている例は、昭和二十九年(一九五四)に、下北半島の東北端で発掘された東通村尻屋にある尻屋札地(ふだち)遺跡(後期・十腰内Ⅰ群〈式〉土器期)、岩木山の東北麓にあって、昭和三十五年(一九六〇)岩木山麓の開発にかかわる緊急調査で発掘された弘前市の大森勝山遺跡(晩期・大洞B1式土器期)、三戸郡の田子(たっこ)町から秋田県の鹿角市に向う国道一〇四号に接して発見された田子町関の在家平遺跡(後期・十腰内Ⅰ群〈式〉土器)、馬淵川右岸の低位河岸段丘上に位置し、一九七五年(昭和五十)県道の拡幅工事に伴って発掘された三戸郡三戸町の泉山(いずみやま)遺跡(晩期・大洞B~C1式土器期)、青森市南郊の八甲田山地から枝状に延びる台地上に造営され、一九八九年(平成元)から青森山田高校・青森大学・青森市教育委員会により調査され、国の史跡指定を受けた青森市野沢の小牧野(こまきの)遺跡(後期・十腰内Ⅰ群〈式〉土器期)など五遺跡であり、発掘調査の手が加わっていないが、類似遺構を有する遺跡として、平賀町の太師森があり、さらに小牧野遺跡より荒川を隔てた東の丘陵にも存在するといわれる。
弘前市・大森勝山遺跡で検出された環状列石
これらの遺構は、いわば多数の石を円形に配した石の集合体であり、数個ないし数十個の石を一つの単位とする集石の配列によって構成され、なかには立石を伴うものもある。石の組み方は河原石を一列または二列に円・楕円・長方形の形状に配列し、内部に立石または数個の石を積んだ組石(特殊組石ともいわれる)、河原石を単に円または方形に配したもの、立石を中心に柱状の石(安山岩が多い)を放射状に配列した組石(日時計ともいわれる)、立石の相互間を数段にわたって横石を積み上げた組石(特殊な組み方のため小牧野式組石ともいわれる)など、組石の構造に幾つかのタイプがみられる。いずれにしても多数の石(小牧野遺跡では二〇〇〇個を越えるという)を付近の川から運び上げる作業は、石が大きければ大勢の人力を必要とし、しかも全体の形状が円を構成している状況をもとに考えると、集落構成員の共同作業によって計画的に造成され、その完成には数年あるいは数十年の歳月を要したであろう。いわば人々の一致協力の成果である(80)。