この「三十八年戦争」の間、比羅夫の時代に服属したはずの渟代・津軽地方の人々は、いつのころからか律令国家に反旗をひるがえしていたらしい。正史『続日本紀』宝亀二年(七七一)六月壬午条では、「野代(のしろ)湊」を「賊地」と呼んでおり(史料一二〇)、また『日本後紀』弘仁五年(八一四)十一月己丑条の陸奥国よりの奏上には、「津軽の狄俘(てきふ)の野心は測り難い」ともみえ(史料二九三)、文室綿麻呂による平定以後もなお、当時の陸奥国司にとっては、遠く津軽の蝦夷の動向が最大の心配事であったのである。
これは九世紀の大征夷時代を通じて、津軽が太平洋側の蝦夷にまでも大きな影響力をもっていたことを示す。このころには北奥の地は、出羽からも陸奥からも意識される存在であったのである。ただし残された史料は断片的で、残念ながら津軽の動向の詳細についてはほとんどわからない。
一方日本海側では、渡嶋の蝦夷(狄)は、宝亀十一年(七八〇、伊治呰麻呂の乱の年)、貞観十七年(八七五)などに不穏な動きを示したことはあるものの(史料一六二・三二四)、基本的には八・九世紀を通じて出羽国府へ来朝し、貢納関係を保っていたようである(渡嶋蝦夷は貢納のために上京まではしないのが慣例であった)。