ふたつの広域火山灰

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七・八世紀代に散在的に展開した農耕集落は、八世紀末から九世紀に入ると面的な展開をみせ、斉一性が強まり、さらに生活技術の面でも土器製作の際のロクロ(轆轤(ろくろ))技術の導入など、エミシ文化の時代との画期を認めることができる。ここでは平安時代に相当する時代の津軽地方考古学的に検証してゆくことにしたい。
 ところで、この時代の津軽地方には、遺跡の絶対年代を想定できるふたつの火山灰が認められ、巨視的にみるとこれらの降下火山灰を基準にして遺跡の新旧関係を決定することが可能である。ひとつは、平安末期に成立した『扶桑略記(ふそうりゃっき)』延喜十五年(九一五)条に、「七月五日(宣明暦。ユリウス暦九一五年八月十八日)の朝日に輝きがなく、まるで月のようだっだので、京の人々はこれを不思議に思った。七月十三日(八月二十六日)になって、出羽国から灰が降って二寸積もり、農桑が各地で枯れたそうだと報告があった。」と記載された十和田a火山灰、もうひとつは、小川原湖の湖底堆積物から九二三~九三八年冬期の降下とされた朝鮮半島起源の白頭山-苫小牧火山灰である。今後、これらの火山灰の降下年代に変更が生じる可能性を考慮しても、津軽地方ではおおむね一〇世紀前半を目安としてその前後に遺跡・遺物の時期区分を行うことができるであろう。これらふたつの火山灰は、一〇世紀前後の遺構や土器を中心とした遺物に年代性を与えることのできる重要な資料である。