擦文文化の終末年代

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本州の擦文土器は、土師器と共伴する例が多いことから、鉄鍋・内耳鉄鍋の出現、そして木器(漆器)の量産体制確立による土師器の衰退と呼応して一一世紀後半には消滅したとする説が現在有力である。しかし、一二世紀中葉に構築され、一二世紀末から一三世紀前半に終末を迎えた可能性が高いとされる弘前市中崎館遺跡堀跡(SD01)の堆積土および底面から出土した擦文土器が、一二世紀後半以降の製作と推定されるかわらけと同時に存在した可能性を示すということ、さらには、北海道東部の根室市浜別海(はまべっかい)遺跡では北宋銭(元豊(げんぽう)通宝、一〇七八年)が後半期(終末期以前)の擦文土器に伴う。また、釧路市材木町(5)遺跡では宋代(九六〇~一二七九年)に製造され、国内では平安時代後半から鎌倉時代前半の遺跡から出土している湖州鏡(こしゅうきょう)が終末期(最終末期以前)の擦文土器に伴って出土し、住居跡の炭素測定では八五〇±九〇BPの数値が得られていることなども考慮すると、その終末年代は検討の余地が多いとみなければならない。
 擦文文化にあっても、基本的には土器から煮炊具である鉄鍋、供膳具である木器(漆器)への転換が考えられる。さらに八世紀初頭以来の日本海沿岸ルートを通しての交易関係等も考慮すると、交易に比重を置いた混交文化を継承する擦文文化の担い手たちは、したたかな外交戦略を展開していたことが想定されるのであり、東北地方北部の土師器とは峻別(しゅんべつ)され、独自性の象徴であった擦文土器の消滅は、必ずしも土師器の消長と連動していたという確証はない。
 擦文文化終焉以降の北海道地方では新たな対外関係が展開し、いわゆるアイヌ文化の発展をみることになったと思われる。