安倍氏の柵

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安倍氏は北上平野一帯に柵を造営し、そこに一族などを配置して地域支配を行っていた。それらの柵は、いずれも自然地形を巧みに利用したもので、磐井川・胆沢川・雫石川といった河川が北上川と合流する河口付近に設置された。北上川を基幹とする水運のネットワークが構築されていたのである。『陸奥話記』にはこれらの柵の名前が一二ほど記載されている。
 安倍氏は、これまでも繰り返し触れてきたように、決して北の世界の保護者ではない。安倍氏は鎮守府在庁として力をつけたのであって、その軍事力は基本的には蝦夷の支配者としての鎮守府在庁軍でもある。したがってその柵も、鎮守府側の城柵と構造がよく似ている。たとえば安倍頼時が死去した岩手県金ヶ崎(かねがさき)町の鳥海(とのみ)柵(写真62)は安倍氏の重要拠点の一つであるが、その場所は、坂上田村麻呂によって鎮守府の置かれた胆沢城と目と鼻の先にあり、土塁・堀・曲輪などの構造は、胆沢城との結びつきの深さを示しているという。

写真62 鳥海柵跡

 安倍氏はまた関東から下向した軍事貴族とも姻戚関係を結んでいる(図29)。藤原清衡(きよひら)の父経清(つねきよ)は安倍頼時の娘婿であるが、平将門の乱平定の立役者藤原秀郷の子孫であった。陸奥守藤原登任(なりとう)にしたがって陸奥国へ下向し、そのまま亘理郡に拠点を置いて「亘理権大夫(わたりごんのたいぶ)」「亘権守(わたりごんのかみ)」と呼ばれていた、陸奥国府の高級官僚の一人である。大夫とは五位のこと。彼は五位の位を持つ権守であった。永承二年(一〇四七)の藤原氏の五位以上の貴族一覧表ともいうべきものを載せる『造興福寺記』にも、経清が「六奥」の五位として記されている。

図29 安倍・清原・奥州藤原氏略系図(誉田慶信作図)

 ちなみに安倍頼良のもう一人の娘婿であった平永衡(ながひら)も、やはり登任の郎従として陸奥国に下向し、そのまま伊具郡に拠点を置いていた人物である。