防御性集落の消滅

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こうして中央からの力が一気に本州北端まで及んだ結果、防御性集落もこの地から消滅していくことになる。一方でそれと同時に、これまで青森県域でもかなりの密度で分布していた擦文土器も、この地から消滅していく。
 この北奥の地域は、平泉に誕生した新しい藤原氏の政権にしっかりと組み込まれ、結果として日常的な激しい内部紛争も緩和されていき、もはや防御施設を必要としなくなっていったものと考えられる。
 この地域に特異な防御性集落に関連して、近年の発掘調査で、古代の一〇世紀後半にまで遡(さかのぼ)ることが明らかになった市浦村の福島城も、やはり堀と土塁をもつ大規模な城郭である(写真68)。その面積は、陸奥国府・鎮守府の置かれた多賀城にも匹敵する規模をもつ広大なものである。もっとも福島城は構造的には防御性集落とは明らかに違う。たとえば土塁と濠の配置が防御性集落とは逆で、土塁の外側に濠がある。あるいはその整然とした中心部の方形の区画は、防御性集落には例をみない。技術的にも設計思想的にも防御性集落とはまったく系譜を異にするものであるといえる。

写真68 福島城跡(市浦村)

 方形区画といえば、東北地方に中央政府によって設置された城柵との類似性が浮かび上がる。しかしこれだけの規模の中央政府側の施設であるならば、何らかの記録が残るであろうし、それを直接に裏づける出土遺物も豊富であるはずであるが、史料も遺物もいずれも存在しない。
 福島城については、規模の点で問題は残るが、むしろ北の世界に特有の方形居館の系譜上に位置づけることができるのではなかろうか。大陸沿海州からサハリンにかけては、方形の土塁によって区画された土城と呼ばれる都城的な町、ないし施設が多数存在する。さらにサハリンから北海道にかけても、類似の遺構が存在しているのである。
 福島城も含めて、これらの遺構は防御の意味もさることながら、むしろ威容を誇るという点に共通するものがあるように思われる。いずれも遺物の分布が希薄であるという点も共通するが、それはおそらく北方交易の場として、限定的にしか利用されなかったからではなかろうか。方形という点で政庁的ではあるが、政庁そのものではないのであろう。
 時代は下るが、北海道の函館あるいは志苔(しのり)館(写真69)も、こうした方形居館の系譜を引くものではなかろうか。志苔館には、今もなお堂々たる遺構が残されていて、その威容を知ることができる。立派な土塁に囲まれてはいるが、しかし入口の門は極めて解放的で、防御のための食い違いもなく、直線的に内部に通じている。二重堀も防御の役割はほとんど果たしていない。志苔館の構造とは、北の世界ではこうした場所で交易を行う伝統が、のちにまで残った結果ではなかろうか。

写真69 志苔館跡(北海道函館市)