陸の道・海の道

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このような列島的交易の動きは一二世紀代に入ると国内的な変化とともに、出土遺物の面で顕著にあらわれる。たとえば、平泉にもたらされた各種の交易品が、さらに陸のルートを通じて津軽の地まで波及したと想定されるものに、中国製白磁四耳壺・同碗・同皿、常滑・渥美の壺・甕などがある。前述した「かわらけ」の波及と軌を同じくしており、その出土地点は「奥大道」のルートと近いことがわかる。この奥大道は『吾妻鏡(あづまかがみ)』にも記されたように、外浜から白河関までという奥州を縦断する幹線道路であった。
 さらにこの奥大道の成立とともに、日本海を北上する海の道もまた出土遺物の面から確認できる。それは、能登半島に成立した「珠洲(すず)」という陶器が一二世紀後半ころから津軽地域まで搬入され、一部は蝦夷島(北海道)まで到達するのである。器種としては四耳壺・甕・鉢であり、古代須恵器の焼成技法を踏襲していることから中世の須恵器といえるのかもしれない。
 このように南の影響下に成立した陸の道と海の道が交わる津軽は、さらに蝦夷嶋から北の世界との交流も保ちながら人・モノ・情報が行き交い、経済的進展とともに中世的社会に対応してゆくのである。