図39 北東北の唐糸伝説に関係する地域
まず、市内の唐糸山萬蔵寺にあったという「唐糸山満蔵寺毘沙門天尊像之縁起」によってその概略を示しておこう(写真105)。よく似た類話は『津軽一統志』首巻にもみえる(史料一一三七・写真106)。
写真105 毘沙門天立像
写真106 『津軽一統志』唐糸前
五代執権北条時頼の寵愛の妃に、唐糸の前といって、容色は世にまれで、性格もよい女性がいたが、婦人の妬みを受けたために、にわかに出家の志を抱き、津軽藤崎の平等教院に落ちのびて、常陸阿闍梨を師と頼み、ひたすら後世(生)菩提を祈っていた。
やがて、名を最明寺道崇と名を改めて諸国修行の旅に出た時頼が、津軽にもやってきたとの噂を唐糸は耳にする。一瞬喜びを覚えた唐糸ではあったが、すでに容色の衰えた自分の姿を見られるのを恥じて、近くの柳の池に身を投げてしまう。近くを通った時頼は、身投げした女性の首の守袋に金銅の毘沙門天があるのを見て、それが唐糸であることを知る。時頼は唐糸の菩提を弔うため護国寺を再建させ、毘沙門天は鎌倉へ持ち帰り、代わりに木造の毘沙門天像を護国寺の本尊として納めた。
やがて、名を最明寺道崇と名を改めて諸国修行の旅に出た時頼が、津軽にもやってきたとの噂を唐糸は耳にする。一瞬喜びを覚えた唐糸ではあったが、すでに容色の衰えた自分の姿を見られるのを恥じて、近くの柳の池に身を投げてしまう。近くを通った時頼は、身投げした女性の首の守袋に金銅の毘沙門天があるのを見て、それが唐糸であることを知る。時頼は唐糸の菩提を弔うため護国寺を再建させ、毘沙門天は鎌倉へ持ち帰り、代わりに木造の毘沙門天像を護国寺の本尊として納めた。
この伝説の主人公である唐糸とは、早くも中世室町期の御伽草子の一つ「唐糸草子」にその名がみえるが、ただそのなかでは、木曽義仲の侍の娘として登場し、その娘万寿の舞の徳によって源頼朝に罪を免されるという、孝行物語・芸能成功譚中の人物であって、時頼とは直接の関係はない。ただ鎌倉をイメージさせるには恰好の女性として広く知られていたらしいので、それが東北地方に、遊行の宗教関係者や芸能関係者によって伝えられた可能性は高いようである。
また唐糸ゆかりの寺が実際に津軽の地にあったことは、やはり室町時代初期の古文書「そへ置文」(史料七三四)に「からいとまいの御てら」と記されていることから確実である。当時のすべての古文書が現存しているわけではないから実証は難しいが、秋田方面にそうした古伝が残っていないことからすると、唐糸伝説の発祥の地は津軽であった可能性が高い。
なお右の伝説にみえる藤崎護国寺については、本章第三節第二項に詳しい。