曽我氏が津軽における拠点としたのが、中世の津軽三(四)郡の内の津軽平賀郡である。岩木川上流を中心とした津軽平野の一部を形成する肥沃な水田地帯は、津軽地方でも早くから開けた場所であったと推定されている。また秋田の比内から津軽に入る奥大道のルート上にあり、津軽平野の咽喉(のど)を押さえる交通の要衝でもあった。
本節二でみたように、奥州合戦ののちに、津軽に入った御家人宇佐美(大見)平次実政が、その拠点を津軽平賀郡に置いたという推測も、このあたりから出たものであろう。曽我氏が北条氏の地頭代として平賀郡に入部したことが確認できるのは、建保七年(一二一九)、曽我広忠の時のことである(「北条義時袖判下文」、史料五五一)。これが曽我氏が津軽に地頭代職を得た最初なのか、あるいはそれ以前からすでに得ていたのかについては定かでない。ただこの袖判下文には、前例がある場合の定型文句である「任二親父某之時例一」といった文言がないので、あるいはこのとき、広忠が地頭代職を得て初めて入部したものかもしれない。
しかし遠野南部家文書中に伝えられた、正慶(しょうけい)年間(一三三二~一三三三)以前の作成ともいわれている「曽我系図」(史料一一四九・写真116)に、廣忠の先代と目される時廣の名がみえ、さらにそこに「曽我検校」という注記があることから、広忠以前の平賀郡入部を主張する説も地元には根強い。地方史誌の多くは大河兼任の乱直後の建久元年(一一九〇)入部説をとっている。
これに関係するのが、曽我氏が得宗北条氏の被官となった時期の問題である。相模国足柄上郡曽我郷(荘)を本領とする御家人曽我氏の一族は、北条氏と被官関係を結ぶことによって初めて津軽方面への入部が可能となったものと考えられるからである。
曽我氏と北条氏との関係については、従来、仇討ちで有名な曽我兄弟が、祖父および父のことがもとで源頼朝を憚(はばか)らねばならず、「常所レ参二北条殿一」だったこと、弟曽我五郎は北条時政を烏帽子親(えぼしおや)として、時政の名乗りの一字「時」を与えられて時致(ときむね)と号して元服したこと、仇討ちの直後、兄弟の義父である曽我太郎祐信が「免-二除曽我荘乃貢一」されていること(以上『吾妻鏡』)、津軽曽我氏は「代々知行」の地として早くから伊豆国安富郷国吉名に所領を有しているが(岩手大学新渡戸文書)、その伊豆国は北条氏の出身地であること、これらのことから、時政時代以来のものと推定されてきた。
ただこのそれぞれについて異論も強くあり、和田合戦において曽我氏が北条氏に与力したことのみに限定すべきだという見解もある。いずれにしろ断定できるだけの史料がない現状では、次第に曽我氏と北条氏との間に繋がりが形成されたと見ておくのが穏当なところであろう。