後醍醐天皇は、同八月、北畠顕家を陸奥守に任じ、ここから建武政府の陸奥支配が本格化した。十月には顕家は義良(のりよし)親王を奉じて、父親房とともに陸奥へ向かって旅立っている。
こうした鎌倉幕府末期の一連の戦乱から、続く南北朝の動乱に至るまで、この津軽の地でも、そうした中央の政情激変の一端を担う戦乱が続くことになり、津軽曽我氏をはじめとする津軽在住の武士たちも、いやおうなくその渦中に巻き込まれていった(図41)。
図41 南北朝期における津軽の楯
津軽曽我氏の嫡流である光頼(光称(こうしょう))・光高(のちの貞光。資光死後嫡子となる)親子は、いち早く後醍醐方についた。この年三月までは鎌倉幕府方の年号「正慶二年」を文書に使用していた曽我氏も、六月からは後醍醐方の年号「元弘三年」を使用するようになる。その六月の鎌倉陥落の直後、関東の曽我一族らとともにそろって鎌倉警備を担当している(斎藤文書・遠野南部家文書)。
後醍醐方では、同年九月には津軽四郡の検注を工藤貞景(さだかげ)に命じ(史料六二九)、津軽地方の支配固めに入ったのであるが、ことはそう容易ではなかった。津軽の武士のなかにはなお幕府方に思いを寄せるものも多く、実際のところ先の検注の命を受けた貞景自身、のちに幕府方につく人間であるから、右の検注が成功したかどうかも怪しいものである。