南北朝の動乱と曽我氏

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建武三年(延元元年、一三三六)正月、足利尊氏の御教書(みぎょうしょ)を受けた安藤家季が合戦奉行となると、津軽曽我氏嫡流の貞光(さだみつ)もそれにしたがって、手始めに藤崎城・平内城を攻め、南部師行(なんぶもろゆき)・政長(まさなが)や成田泰次(やすつぐ)らの軍勢と戦った(史料六九九)。貞光は左膝に矢傷を負ったにもかかわらず、続けて船水楯に小笠原孫四郎を攻めている。この時には、秋田から浅利清連も合戦奉行として加わった。
 安藤家季は、斯波家長が発給した合戦奉行への補任を示す「将軍家御教書」を掲げて、周辺の武士を多数募っていたという。このころの遠野南部家文書など曽我氏関係の文書には、「将軍家御教書に応じて」という文面がしばしばみえる(史料六七七)。
 この直後、長征によって北畠顕家(写真154)が京都を奪回し、また摂津国では楠木正成(くすのきまさしげ)・新田義貞(にったよしさだ)らが尊氏を破って、尊氏はいったん九州に走り、津軽の武士たちも再び動揺したようである。しかし貞光は一貫して尊氏を支持して、津軽方面で戦い続けた。

写真154 北畠顕家

 同年五月には安藤家季の楯が南朝方に攻められたようであるが、貞光は叔父光俊(みつとし)とともに、逆に倉光(くらみつ)孫三郎のよる小栗山(こぐりやま)楯を襲い奮戦し、六月には田舎楯を攻め、七月には新たに新里(にさと)楯・堀越楯を築くとともに、それを妨げた倉光孫三郎を追い払い、八月には光俊(または光時(みつとき)か)を鹿角(かづの)征伐に派遣し、翌建武四年(延元二年、一三三七)正月には再度、田舎楯で南朝方と戦った。七月には再度、鹿角に若党鱸鎌治(すずきかまはる)を代官として派遣している(史料六七七・六七八・六九九)。
 これら一連の働きに対して、合戦奉行浅利清連が、貞光は南部師行方の楯々攻略に抜群の勲功を立てたと、総大将斯波家長に報告した文書が残っている(史料六七九)。