日の本将軍の呼称は、安藤氏だけの呼称ではなかった。『尊卑分脉脱漏平氏系図』『山椒大夫』『清和源氏系図』などでは、安藤氏以外に日本将軍を称したという事例がみえる。これらの事例の中で、とくに足利直義(ただよし)が「日本将軍」と称され、それが鎮守府将軍を意味していたことなどから、日の本将軍と鎮守府将軍とは重複視されるものであるという。そして、この鎮守府将軍については鎌倉期には中断していたが、正慶二年(元弘三年、一三三三)に足利尊氏が後醍醐天皇から任じられている。その後、外浜・糠部郡を含む十三ヵ所の北条氏遺領を与えられ、尊氏はこれを利用して蝦夷沙汰にも着手している。そして、鎮守府将軍という官職を背景とした行動であることから、陸奥守北畠氏もこの行動を非法と見なしてはいなかったという。鎮守府将軍は、建武政権によってクローズアップされ、蝦夷沙汰と結びつけられたものであるという。つまり、日の本将軍は室町幕府の北方政策にかかわるものであるということになる。