建武二年(一三三五)三月二十三日、
陸奥守
北畠顕家は
南部師行(もろゆき)に
津軽を巡見させるが(史料六六三・写真164)、このとき、師行には
津軽中の軍事・警察権、行政権という権限が委任されていた。一方、この年の閏十月二十九日には安藤高季にも
北畠顕家より所領が安堵されているが(史料六七一)、このとき、正中二年(一三二五)の父安藤宗季の高季への譲状に見られる「ゑそのさた」、すなわち
蝦夷管領にかかわる文言はみえない(史料六二一)。建武政権は、
南部氏にこの権限を任せようとしていたのであろうか。少なくとも
南部氏は
津軽のみならず、閉伊郡で警察権を行使し、比内(ひない)郡・鹿角(かづの)郡などで所領を新しい知行人に渡したりしていることから、
南部氏を
北奥羽・蝦夷地を統括する者として見なしていたという。こうした状況は、安藤氏にとってみれば内心不満であったに違いない。
写真164 陸奥国宣
しかし、こうした体制も、建武政権の崩壊により長く続くことはなかった。そして、しばらくは南朝方として行動をしていた安藤氏が、観応の擾乱のころから足利氏と結びその勢力を挽回し、南北朝後半から室町初期には
津軽・下北半島・秋田・蝦夷地などに鎌倉期と同じ権益と権限を行使していた。一方、
南部氏は南北朝の内乱の中で大きく二つの流れとなり、師行とその弟の政長の系統は糠部八戸根城を拠点とし、糠部三戸城を拠点とした
三戸南部氏が早くに幕府に降り勢力を広げていた。この両者は、しだいに
三戸南部氏が優位に立っていく。