現在、考古学的に細かい年代観のわかる瀬戸製品の出土状況をまとめると図43のようになり、一二世紀後半から一四世紀前半までは陶磁器自体は存在するものの、明確な生活痕を示す段階までは至らず、一四世紀中ごろからは生活用具としての陶磁器が明確になってくる。一二・一三世紀の陶磁器は伝世的な意味も加味しなければならず、さらに発掘箇所によって年代の違う陶磁器が出土する傾向もあるため、今後の調査面積の拡大をみてから判断しなければならない点も多い。いずれにしても、十三湊の主体年代が一四世紀後半から一五世紀前半であることは、当分動かない年代観と思われる。
図43 十三湊から出土する瀬戸の年代と出土量
地籍図や航空写真・古絵図をもとに遺構を復元した状況では「宗教施設」「港湾施設(ヵ)」「安藤氏(ヵ)館」「家臣団屋敷」「町屋」「寺院」「中軸街路」などを想定しており、安藤氏に管轄された北のターミナル港としてのイメージが広がっている(図44)。
図44 十三湊の図
現在までの調査結果からすると、十三湊遺跡は、南北に区分する土塁の北側と南側では遺構や遺物に興味深い相違がみられる。北側では遺構の重複が激しいばかりでなく、溝などの区画施設が発達すること、さらに掘立柱建物跡と竪穴建物跡・井戸跡がおそらくセットになって存在しているのに対し、南側は概して遺物の量も少なく竪穴建物跡が現在まで発見されていない。
県内で発掘調査された中世遺跡の遺構群の在り方からすれば、掘立柱建物跡・竪穴建物跡・井戸跡は生活空間を構成する主要な要素であって、竪穴建物跡の欠如は、土塁の北の空間と南の空間に別次元の規範が働いていた結果とも想定される。
また出土遺物の面からみても、北奥の遺跡の中で十三湊は際立った特色がある。それは、出土陶磁器における中国製品と国産(主として瀬戸)の比率である。城館など一般的な遺跡のほとんどは、出土陶磁器のなかで中国製品が半数以上出土するのに対し、十三湊は場所によって中国製品の一・六倍の瀬戸製品が出土する。
このことを、弘前市域の境関館と比較したのが図45である。境関館の場合、中国産陶磁器の比率は十三湊と変わりないのに、国産陶器のなかでは珠洲が多く、瀬戸に関しては十三湊の約半分である。これは同時代の青森市尻八館(しりはちだて)でも同様の傾向を有していることから、実際に境関館の瀬戸の出土が少ないのではなく、対する十三湊の瀬戸が多すぎるわけである。
図45 十三湊と境関館の出土陶磁器比率の比較
(外側は十三湊,内側は境関館)
このような瀬戸製品の突出した現象については、一四世紀後半以降における海運の発達や経済交流の進展と見なす考え方とともに、瀬戸製品は中国製品に対する補完的な搬入品ではなく、国産陶磁器のなかでも一段高い権威性を有しているため、その地域の拠点的場所に集中する傾向、つまり都市的な場の指標の一つとする考え方もある。