とくに、津軽地域の城館のなかでも平野部と海岸部では出土陶磁器に違いはないものの、農耕具や狩猟具といった生産に直接結びつく製品、さらには加工に伴う出土遺物には遺跡ごとの違いが存在している。
先に述べた破砕する陶磁器の類はアイヌ社会に認められる「物送り」といった精神構造と類似しており、和人社会における一律の社会規範では考えにくいところに、津軽の中世遺跡における境界性を見出し得るのである。
このように混沌とした集団性や精神性は、実は北日本という地域だけが有している特性ではなく、日本列島上の「中世社会」が前代以来内在している構造であり、たまたま北日本地域が鮮明にみえているにすぎない。北日本に搬入された陶磁器をはじめとした考古遺物が、遺跡それぞれの顔を示しながら良好な状態で出土するようになると、これまで知られなかった中世社会の実像に迫ることができると考えられる。
たとえば、図49に示した一五世紀代の遺跡における陶磁器組成をみると、志苔館は青磁・白磁の食膳具が大部分で調理・貯蔵といった長期間の生活形態を示す陶磁器が少ないのに対し、境関館は逆に珠洲を中心とした甕・擂鉢の比率が高い。
図49 陶磁器組成の比較
つまり、志苔館は居館内部で宴会等の食膳行為を行うことが主体であり、若干ではあるがかわらけの出土もそのことを裏づけている。境関館の組成は城館の有する政治的儀礼もさることながら、集落的な日常生活の痕跡が色濃く反映している組成とみたい。さらに尻八館は山城でありながら、食膳・調理・貯蔵といったバランスのとれた組成と陶磁器の質の高さが認められ、津軽を中心とした主体的交易の担い手を想起させるものがある。