また、荼毘館遺跡は出土陶磁器によると一三世紀後半から一五世紀にかけて成立している城館であるが、堀跡の確認や倉庫風の掘立柱建物跡の検出など館としての機能は十二分に備えていることがわかった。この遺跡に隣接して正応元年(一二八八)銘などの年号を有する中別所の板碑群が存在し、出土陶磁器と年代的には合致する。
つまり、中別所や宮館の板碑群は、それらの造立にあたって周辺に位置する荼毘館などの館跡に起居する武士階層が深く関与していたことは、発掘調査によっても裏づけられた。かつて、城館調査の先達であった中村良之進は荼毘館を「古代の蝦夷館なるべし」と『青森県中津軽郡船澤村郷土史』に記したように、確かに古代から館のような構造であった可能性もあり、中世に至っても同じ占地に城館を構えるということは、開発行為が連綿と続いていたことを示している。
さらに、中別所の地は広大な城館ではないかと指摘する人もおり、城館の中に板碑を造営することによって「聖地」のような性格を有していたことも想定される。板碑に関連していえば、荼毘館と境関館からは土の中に埋もれていた板碑が発掘調査によって発見されている(写真180・図58)。二例とも堀や井戸跡に廃棄された状況で出土していることから、板碑としての機能が消滅した後に捨てられたものと思われるが、石塔に関する中世の人々の感覚を知る上でも興味深い事例である。
写真180 境関館の板碑
図58 荼毘館の板碑
独狐館からは中世陶磁器が出土し、古い時期では一二世紀後半段階のものもある。しかしながら、一三~一五世紀は少量で、一六世紀の遺物が多い。このことからも中世初期の段階から開拓がなされるものの、主体は一六世紀であろう。