津軽奪還を目指して

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安藤盛季(もりすえ)の甥にあたる潮潟重季(うしおがたしげすえ)の嫡子政季(師季)(まさすえ(もろすえ))は、十三湊の没落の際に生け捕られ、糠部八戸で元服して「安東太」を名乗り、田名部を領することとなった(史料八〇一・八〇三)。「安東太」(または「又太郎」)は、鎌倉末期以来の安藤家惣領の名乗りである。このことから、師季の保護は、南部氏十三湊安藤氏にかわる安東(この時期に「安藤」から「安東」に氏の表記が替わった可能性も指摘されている)氏を擁立して、その存在に依拠する形で津軽・下北・夷島(蝦夷島)各所の安藤一族を懐柔し、また、旧安藤領支配を円滑なものにするとともに、室町幕府から認められていた安藤氏の地位・職権、そして安藤氏が押さえていた北方海域の制海権を掌握しようとするものだったという。
 一方、十三湊を追われ蝦夷地に逃れた安藤盛季(もりすえ)の子息康季(やすすえ)は、そののち津軽に戻ったが、引根城で死去し(史料七九一~七九三)、その子義季(よしすえ)は享徳(きょうとく)二年(一四五三)大浦郷で南部勢に攻められ自害した(史料七九九~八〇〇)。康正(こうしょう)二年(一四五六)ころと考えられる八戸政経宛ての前信濃守孝安書状には、奥州の情勢が安定したことを賀す文言がある(史料八〇四)ことから、室町幕府南部氏によるこの地域の安定を認知することで、その支配体制が北方海域にまで拡大された画期的な時期だったとみられる。
 しかし、享徳三年八月、安東政季は、武田信広(たけだのぶひろ)・相原政胤(あいはらまさたね)・河野政通(こうのまさみち)といった下北に住む浪人衆とともに大畑より海路、夷島に脱出した(史料八〇一~八〇三・写真183)。この渡海によって、師季が自立した勢力として南部家に対抗する土台が形成されたと考えられ、二年後の康正二年、上之国・松前・下之国に守護を置き、夷島南部に存在した館主と呼ばれる在地土豪の被官化を推進しようとする。さらに同年、秋田にいる安東氏の一族、湊安東(みなとあんどう)氏の当主安東堯季(たかすえ)は、安東師季を夷島から出羽国小鹿(おが)(男鹿)島に招き、続いて河北郡に入部させたと伝えられる(史料八〇五~八〇七)。これがのちの檜山安東(ひやまあんどう)氏の始まりとなる。応仁二年(一四六八)二月二十八日付で師季が熊野那智山に捧げた願文には、もとの如く津軽外浜・宇楚里(うそり)・鶴子遍地(けしべち(つるこべち))の回復を願う文言がある(史料八四三・写真184)。さらに文明二年(一四七〇)には、安東政季(師季)が津軽に侵攻し、かつて安藤氏の根拠地の一つであった藤崎館を攻撃したが(史料八四七)、これが津軽への下国安東氏の最後の侵攻であった。

写真183 『松前年代記』
安東政季の渡海
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写真184 安東師季願文

 文明十四年(一四八二)、「夷千島王遐叉(えぞがちしまのおうかさ)」の使者「宮内卿」と称する者が、将軍足利義政が派遣した日本国王使とともに朝鮮に赴き、当時の将軍・大名が垂涎(すいぜん)の的としていた大蔵経(だいぞうきょう)を求めた。しかし、使者の宮内卿は夷千島のようすを聞いてもわからないほどの者であり、また朝鮮側に提出した書契は宮内卿の筆跡と同じものであることなどから、疑惑の目でみられ、結局大蔵経を得ることが出来ずに終わっている(史料八五二~八五四)。この「夷千島王遐叉」の正体については諸説あり、夷千島王遐叉を安東政季とすることは難しい。使者の首尾からみて偽使であるにしても、「日之本将軍」安東氏についての知識がこのような使節派遣構想につながったものであろう。
 長享(ちょうきょう)二年(一四八八)政季は森山飛騨守の謀反に遭い、出羽河北郡糠野城で自害した(史料八五九)。しかし、政季の子忠季(ただすえ)は、明応(めいおう)四年(一四九五)檜山城(写真185)を築いて本拠とし(史料八六四・八六五)、一方海上交通を通じて夷島南部も依然として確保していたのである。

写真185 檜山城跡