戦国時代の合戦方法には大きく分けて「野戦」と「攻城戦」の二つの戦法があった。野戦の中でもっとも基本的なものが遭遇戦と呼ばれるもので、攻め手と守り手との二つの陣営が、おもに平原や川原など広々とした所で対陣し、戦闘を展開する戦法である。この戦法の場合は、兵力のうえで優勢な方が勝利を収めるのが普通であり、そのために劣勢な方は奇襲攻撃をかけて兵力の差を補おうとすることがしばしばみられる。
このような野戦の状況を文献史料から知ることができるものとしては、天正七年(一五七九)七月に下国安東愛季が津軽に侵攻し、乳井(にゅうい)・六羽川で大浦為信勢と戦った(史料一〇二七)とされるものが唯一である。この合戦は、下国安東愛季の軍が三百余りの勢力で襲ってきたというもので、安東(秋田)勢は玉薬(鉄砲の玉)も尽きたことから、引き払って乳井茶臼(にゅういちゃうす)館に立て籠ってしまったので、為信は塗部新七(ぬるべしんしち)ら兵隊を整え、さらに五人の供を連れて敵側の動向を調査に行ったところ、六羽川に安東氏側の敵兵が待ち伏せしており、大豆畑の中などから銃撃してきたというものである。この戦法により津軽為信は絶体絶命の危機に追い込まれることとなったが、家臣の田中太郎五郎が身代わりとなり討ち死にしたため、敵方の安東勢は大将(為信)を討ち取ったと思い込んでしまった。そのことにより備えが緩んだ隙を突いて、再び合戦して為信勢が勝利を収めたというもので、非常に信憑性のあるものである。もし、この六羽川の合戦で大浦為信が討ち死にしていたとしたならば、津軽の歴史もまた違ったものとなっていたことであろう。
こうした遭遇戦に代表される野戦に対し、城にいる敵を攻撃するのが攻城戦である。この攻城戦も城の正面から力まかせに攻める正攻戦(せいこうせん)のほかに、城兵の予期していない裏手の方から攻撃したり、大軍で城を包囲して攻めたてたり、さらには兵糧攻め、水攻めなどといったさまざまな方法があった。文献史料によると、津軽地方における戦国時代の合戦はこの攻城戦が圧倒的に多かった。攻城戦の中でも正攻戦として挙げられるものに、天文二年(一五三三)に南部安信が藤崎城主安東教季を城中で討ち取った合戦(史料八九九・九〇〇)、元亀二年(一五七一)五月五日夜に、大浦為信が五〇〇騎ほどの軍勢で、石川城の南部高信を滅ぼした合戦(史料九八七)がある。さらに天正四年(一五七六)正月元旦に、大浦為信は大光寺城を攻撃し、城代の瀧本重行(たきもとしげゆき)は南部へ退去した(史料一〇〇六)。このように戦国期の津軽領内での合戦方法、とくに大浦為信の合戦方法のほとんどは攻城戦型の合戦方法が用いられているという特徴がみられる。また攻城戦ではあるが、敵方の城内に密通者を入れて城主を滅ぼすという密通者を使った攻撃方法などもある。